2017年3月号
特集
艱難汝を玉にす
インタビュー③
  • 児童養護施設「愛児の家」主任保育士石綿裕

孤児たちの
幸せのために生きる

東京都中野区にある児童養護施設「愛児の家」は72年前、石綿さたよさんという無名の主婦によって創設された。石綿さんは上野駅にいた孤児たちに声を掛け、次々に自宅に引き取っては育て上げた。石綿さんと長年、行動をともにしてきた三女の裕さんに、困難に立ち向かったこれまでの歩みを振り返っていただいた。

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孤児たちに温かいご飯を

──「愛児の家」はもともと戦災孤児たちの家だったと伺っています。現在はどのような子供たちが生活しているのですか。

いまは2歳から18歳まで35名の子供さんがいて、非常勤まで含めて24名の職員が教育や指導に関わっています。お預かりしているのは皆、虐待など様々な事情で親と一緒に生活できない可哀想なお子さんばかりですので、私たちが家族となって一緒に生活をしているんです。
私は83歳になりましたが、いまも10名いる幼児さんの担当です。夜は幼児さんと一緒に寝て、朝は5時過ぎに起きます。身支度を整えて7時過ぎに幼児さんを起こして一緒に食事。その後、幼稚園に送り出して、帰ってきたら仲良く遊んで晩ご飯を一緒に食べて8時には寝る、といった生活を30年近く続けています。炊事当番から外していただいているという他は、普通の家庭の母親と何ら変わりません。
この家を始めた母のさたよは平成元年に92歳で亡くなるまで小さいお子さんと一緒に寝ていましたので、後を継いで私もそのようにしているんです。

──お母様は、どのようなきっかけで「愛児の家」を始められたのですか。

母は終戦後すぐに戦争孤児を自宅で育てるようになったのですが、それまではごく普通の主婦でした。父は手広く綿布の商売を成功させた起業家でしたので、かなり大きな屋敷に何人もの書生さんやお手伝いさんがおりました。外に女性をつくって、ほとんど家に帰らないような父でしたが、母は悲しそうな顔一つ見せず、私たち3人の姉妹を育て上げてくれたんです。
母は終戦直後に新潟の別荘に米を取りに行き、その帰りに上野駅に溢れる孤児たちの惨状を目にし、放ってはおけなくなったようですね。中野のこの辺りは幸いにも空襲の被害が少なくて、「うちは助かったのだから、今度は気の毒な人たちを助けよう」というので、広い自宅で孤児たちを育てることになりました。

──なかなかできることではありませんね。

終戦の翌月、最初に我が家に連れてこられたのは母の友人が山手線で出会ったという7歳の男の子でした。自分の名前以外、知らない子でしてね。私たちは何も考えずに一緒に寝たら、とにかくシラミだらけで大騒ぎになりました。まだDDT(殺虫剤)もない頃でしょ。お湯を沸かして衣類を全部消毒したんです。我が家で戸籍をつくりましたけど、そういう子が1人、2人と日を追うごとに増えていきました。
小学校を出たばかりの私も母から「来る?」と聞かれて、たくさん握り飯を持って上野まで出掛けたものですよ。いまの方には想像もつかないでしょうが、その頃、上野の地下道には排泄物と残飯に混じって、ボロボロの服を身につけたやせた孤児たちがたくさんいました。どこから見つけてきたのか、焼け残った毛布や新聞紙にくるまって生活している。下町では空襲で10万人が亡くなり、27万人が焼き出されたと言われています。そういう人たちが上野の駅舎に集まってきていたんです。
いまでもはっきり覚えていますけど、男女の区別もつかないくらい垢で真っ黒になった子供が空き缶を持って「頂戴、頂戴」と物乞いをしている。母がお握りを渡して「うちに来る?」と聞くと「うん」と。それで電車に乗せて連れてくるんですが、汚いですからね、乗客がサーッと離れていくんです。
家に着くとまずお風呂に入れて、ご飯を出す。食糧難の時代でしたが、母はどこからか米や野菜を調達してくるんですね。人を安心させるのは温かいご飯が一番、というのが口癖でした。

児童養護施設「愛児の家」主任保育士

石綿裕

いしわた・ひろ

昭和7年東京生まれ。終戦直後から母さたよさんとともに孤児を育てる。児童養護施設「愛児の家」設立後は保育士として勤務。現在もなお子供たちと寝食をともにしている。