2019年6月号
特集
看脚下
対談
  • (左)明治大学教授齋藤 孝
  • (右)隂山ラボ代表隂山英男

小学1年生の学習が
人生のレベルを決める

小学校1年生の時に言葉というものが好きになれば、国語について一生苦労することがない――。長年日本語教育に携わってきた明治大学教授・齋藤 孝氏のそんな思いから1冊の本が生まれた。『齋藤 孝のこくご教科書 小学1年生』である。小学生に与えるには、どのような国語の題材が理想なのか。音読などを取り入れた隂山メソッドで知られる隂山英男氏とともに、現代の教育の問題点や幼少期に国語教育が果たす役割、文化遺産としての日本語の価値などを交えつつ、語り合っていただいた。

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国語教科書はいまのままでいいのか

隂山 齋藤先生の新刊『齋藤孝のこくご教科書 小学一年生』(致知出版社)を拝見しました。一読して、そのレベルの高さに驚きましたね。夏目漱石そうせきの『坊っちゃん』はあるわ、『平家物語』はあるわ、俳句・短歌はあるわ……。国語教育の再生に懸ける先生の思いの強さのようなものが伝わってきたんです。この本のことは早くから構想されていたのですか。

齋藤 私は『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになったことがきっかけで、NHK Eテレの子ども番組『にほんごであそぼ』の総合指導を長くやらせていただいています。番組は幼い子供たちに優れた名文に触れる喜びを提供するのが狙いなのですが、指導を通して「幼児が小学校に上がった時に、いまのような国語の教科書のレベルでいいのだろうか」「小学校1年生という人生で非常に大事な時期に、最高の教科書に出合わせてあげたい」という思いがずっとあったんです。
いま小学校で使われている教科書は割合絵が多いんですね。文章を読み、絵を見ながら「皆で一緒に考えてみよう」とか「この文章からどういうことが考えられるかな」とか、話し合いを前提に授業が行われるのは一見いいようなのですが、いかんせん活字量が少ない。
そもそも国語というものは膨大な活字に触れて、日本語の基本を身につけるものなのに、いまのままの教科書でスタートするのでは、到底学力は高まっていかないだろうと。そんな危機感から今回、小学1年生を対象とした本を上梓じょうそしたわけなんです。

隂山 確かに現在の教科書はより易しくという傾向にあって、子供たちに与えるのに決
して望ましいものではありませんからね。

齋藤 私の『こくご教科書』には、子供たちに馴染なじみのない文語体の文章もかなり収録されていますが、学年配当の漢字に気を使うよりも、ふりがなを振って価値のある文章をしっかり音読することを重視しています。
担任の先生が先導して子供が復唱するような音読指導をご家庭でもやっていただく。意味はまだ読み取れないとしても、よい言葉を体に刻み、日本語の学力を最高に引き上げるには、それが一番シンプルで確実な方法だというのが私の一貫した主張です。

私は教育学者として、実はこの国語教育の改善については積年の思いがありました。文部科学省の局長クラスの人に「いまの教科書ではいかがなのか」という意見を再三言ってきました。
2020年から全国の小中学校で「主体的対話的で深い学び」がスタートするわけですが、日本語を読む力を抜きにして、ただ対話だけをしていて果たして国語力を中心とした学力が向上するのかというと極めて疑問ですね。私自身、30年間、教育方法を専門にやってきて、アクティブ・ラーニング(グループディスカッションやディベートなどを取り入れた能動的な学習方法)を中心とした授業運営がいかに難しいか、そのことをよく知っていますから。

隂山ラボ代表

隂山英男

かげやま・ひでお

昭和33年兵庫県生まれ。55年岡山大学法学部卒業。城崎郡内の小学校を経て平成元年より兵庫県朝来町立山口小学校教諭。公募により15年広島県尾道市立土堂小学校の校長に就任。18年京都市の立命館小学校副校長就任。現在は陰山ラボ代表。教育クリエイターとして全国各地で学力向上アドバイザーを務める。著書に『隂山メソッド徹底反復「音読プリント」』(小学館)『陰山英男の読書が好きになる名作』(講談社)など多数。

力ある名文の音読が子供たちを伸ばす

隂山 いまの齋藤先生のお話にはまったく同じ思いです。僕も現場の教師としていまの教育のあり方に疑問を持ち、割に早い段階から小学校の授業で音読などを取り入れてきました。
意外だったのは、僕たちが高校で習った一見難しいイメージの古典を子供たちが自然に受け入れていったことですね。私はこのことに気づいて以来、音読を定式化し、独自で活動するようになった現在も、陰山メソッドを導入した全国の学校で子供たちに短時間に集中して名文を読ませているわけです。教育に音読を取り入れた結果、子供たちの学力が爆発的に伸びた。このことははっきり言えると思います。
ところが、ある時、隂山式を取り入れているある学校から「成績が急降下した。陰山式を続けているんですけど、どこが悪いのでしょうか」と相談を受けたんです。実際に足を運んで教室に入った瞬間、「もうこれは駄目だと」とすぐに分かりました。なぜかというと、古典などの名文を授業で使っていないんです。分かりやすくて楽しい現代詩人の作品ばかりを題材にしている。それは悪いことではないのですが、決して力になる文章ではないんですね。

齋藤 おっしゃるように、子供のうちから力のある文章を読ませる基礎トレーニングはとても大事だと思います。文章の力強さが学力やたくましいメンタルを育てる上で大きな働きをすることは間違いないでしょう。

隂山 学力を伸ばしている学校は、小学1年生から『枕草子まくらのそうし』などを普通に読ませていますし、『論語』の音読で成果を挙げている幼稚園もあります。「子曰しいわく……」という独特のリズムが気に入るみたいで、短期間で覚えてしまう子も多いですね。
そのように考えると、「高校生が学ぶような難しい文章を、なぜ小学1年生に与えるのか」と否定的に発想するのではなく、「こういう文章を与えたほうが子供たちにとって力になり、馴染みやすい」と考えたほうが、より実態に即していると思います。

齋藤 小学生には『論語』の「おのれの欲せざる所、人に施すなかれ」という章句が人気が高いと聞いたこともありますが、古典はそれだけ心の琴線きんせんに触れる力があるからこそ、今日まで残ってきたと思うんです。学習には、そういう「文化遺産を継承する」というような絶対的な意味合いが必要なのではないでしょうか。
理科の教科書にニュートンの法則が出てきますが、これは絶対的ですよね。国語でいえば『万葉集』であり『百人一首』です。こういう取り替え不能な題材でラインナップを組むことが教科書の質であり核となります。その意味では、いまの国語の教科書の題材は取り替えがきくものばかり、という印象はぬぐえませんね。それを教える教師も文化遺産を継承する使命感がないまま教壇に立つなどありえないと私は思っています。
その文化遺産としての大切な日本語を受け継いで、まずはそれを「読む」技を身につける。「話す」「聞く」はその土台の上にあります。「読む」ことを抜きにして「話す」「聞く」にかじを切ってしまったら、国語の教育は終わってしまうとすら危惧きぐしますね。

隂山 「話す、聞くにシフトしたら国語の教育は滅ぶ」という齋藤先生のいまの発言、まさに名言だと思います。教育現場の人の多くはいま、その真逆を考えているんです。そういう点で言うと、皆が学力低下の方向に向かって進んでいるのではないかと心配しています。
だからといって、これを文科省の責任ばかりにはできない。文科省はむしろ「基礎基本はきちんとやりましょう」と言っているわけで、現場のほうがどこか偏る傾向があるんです。教師が教育の全体像を思い描くのではなく、その時々の手法にばかり走ってしまっている現実は否めません。

明治大学教授

齋藤 孝

さいとう・たかし

昭和35年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学教育学研究科博士課程を経て、現在明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション技法。著書に『子どもと声に出して読みたい「実語教」』『親子で読もう「実語教」』『子どもと声に出して読みたい「童子教」』『楽しみながら 1分で脳を鍛える速音読』など多数。最新刊に『齋藤孝のこくご教科書 小学一年生』(いずれも致知出版社)。