2018年2月号
特集
活機かっき応変おうへん
  • 水戸史学会会長宮田正彦

最後の将軍
徳川慶喜の決断

「大政奉還」や「一意恭順」など、機に応じた歴史的決断を行い、明治維新への道を開いた最後の将軍・徳川慶喜。しかしその人物や決断への評価はいまだ毀誉褒貶相半ばし、はっきりとは定まっていない。徳川慶喜とはいったいどのような人物であり、決断の真意とは何だったのか——。長年、徳川慶喜の研究に取り組んできた水戸史学会会長の宮田正彦氏に紐解いていただいた。

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いまだ評価が定まらない徳川幕府、最後の将軍

最後の将軍、徳川慶喜よしのぶは「大政奉還たいせいほうかん」や鳥羽とば伏見ふしみの戦いの後の「一意恭順いちいきょうじゅん」など、日本史における数々の重要な歴史的決断を行った人ですが、その人物像や決断の真意について詳しく知っている方はそう多くはないでしょう。
 
事実、特に戦後においては、慶喜公の大政奉還や一意恭順の決断について、「政権を投げ出した」「戦いを放棄して江戸に逃げ帰った」「決断力や責任感が薄い」などといった批判的な見解、学説が多くあり、皆さんも同様のイメージを抱かれていることと思います。
 
しかし、慶喜公と縁の深い茨城県水戸の地で、長年幕末史や慶喜公の行動のバックボーンともなった「水戸学」の学者や文献に関わってきた身からすると、そのようなイメージは誤解以外の何ものでもありません。むしろ、慶喜公は時代の先を見通し、最後まで自らの誠を貫いた稀有けうなリーダーであり、もし最後の将軍が慶喜公でなかったなら、明治維新は実現しなかったかもしれないのです。
 
私がそうした確信を深める大きなきっかけとなったのは、茨城県立歴史館に研究員として務めていた昭和54年、慶喜公の書を見る機会に恵まれたことでした。
 
当時、水戸市郊外丹下(現・見川町)の一橋徳川家から寄贈された品物の中に、おおやけには一度も開かれたことがない、青みがかった絹地(水戸絹)に、墨色も鮮やかに「誠」の一字が記された横幅2メートル近い掛軸がありました。これは、慶喜公が将軍職に就いた翌春に一橋家に贈られたもので、署名はありませんが、付随する「お軸の記」から、慶喜公の書であることは疑いようがないものです。
 
書には、「時亮天功じりょうてんこう」「允文允武いんぶんいんぶ」「綱紀四方こうきしほう」の3つの印がされています。いずれもシナの古典の言葉ですが、「時亮天功」は「いまこの時に天子様のお仕事をおたすけする」こと、「允武允文」は「文武の徳が兼ね備わる」こと、「綱紀四方」は「道徳によって、天下の秩序を維持する」ことを表します。

すなわちこの書は、自分が将軍として取り組むべきことは、朝廷をお助けする仕事であり、幕府の私政を押し通すことではない。文武両道をもって天下平和を実現していく、その根源の力は「誠」の精神である、という若き将軍の決意を表したものだと思われます。
 
慶喜公は時に31歳。私はこの掛軸を初めて開き、堂々とした「誠」の一字を見た時、何とも言えない迫力を感じるとともに、慶喜公のうそ偽りのない人柄、真心に触れ得たような気がしたのです。
 
本欄では、慶喜公の生涯や言葉を紹介しつつ、その実像、大政奉還や一意恭順など歴史的決断の真意に迫りたいと思います。

水戸史学会会長

宮田正彦

みやた・まさひこ

昭和13年東京生まれ。21年茨城師範学校女子部附属小学校第三学年に転入。35年茨城大学文理学部文学科卒業(史学専攻)。茨城県立水戸第二高等学校教諭、茨城県立太田第二高等学校校長など、教育に携わる一方、茨城県立歴史館学芸第一室長、史料部長を歴任。平成18年より水戸史学会会長を務める。論文・講演多数。