去る令和5年3月14日、弊誌でもお馴染みのハガキ道伝道者・坂田道信氏がお亡くなりになりました。享年83でした。
先頃発刊した弊誌3月号にて「実践人の家」参与・浅井周英氏とご対談いただき、坂田氏の恩師でもある森信三師の思い出や、弊社より『森信三 運命をひらく365の金言』が発刊された喜びを、あの独特の〝坂田節〟で語り尽くしていただいたばかり。寝耳に水の訃報に、言葉もありません。
坂田氏は、昭和15年に広島県の農家に生まれました。幼い頃から病弱で、勉強もできなかったという氏の人生に転機が訪れたのは、昭和46年。松山で開かれた研修会で国民教育の師父と謳われた森信三師と出逢い、「複写ハガキ」を奨められたのです。複写ハガキとは、カーボン紙で自分の書いた文面を複写し手元に残るようにするものです。
学問に用のない一介の農家だったと自ら語る坂田氏は、平仮名ばかりの文章では相手から信用されないからと、ハガキ1枚に最低3つの漢字を入れるべく辞書を傍らに執筆に奮闘。1日30枚、多い時には1日50枚ものハガキを書き続けた結果、交友の輪は全国に広がり、「ハガキ祭り」という勉強会を主宰するまでになりました。
「おかげで、過疎の町で一生を終えるはずだったお粗末な百姓が、〝ハガキ道の伝道者〟などと身がこそばゆくなる呼称をたまわり、あちこちから講演などに招かれるようになりました。思わぬ人生の変転に驚きながらも、ありがたいことだと感謝いたしております」
と述懐されています。
自身の体験を踏まえ、「その人の実力は友達の数」と説く坂田氏の元には、毎年大量の年賀状がダンボールに詰め込まれて届いていたといいます。困った時にはハガキの仲間がいろんなものを送って助けてくれ、奥様との出会いもハガキがきっかけ。ハガキを書けば人生が面白くなるという持論は、心の底からの実感だったことでしょう。最近の対談では、
「私は、相手になってくださるのは神様だと思うから、返事をもらわなくても書くんです。神様との共著だなぁとも思っている。とにかく続けることで、上手、下手を超えた一つの世界が開けてくるのを実感しているんです」とも。
昭和61年に初めて『致知』の取材に応じてくださった坂田氏は、以来、対談やセミナーに幾度も登場いただき、『致知』を応援し続けてくださいました。
生前のご厚情に心より感謝申し上げますと共に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
ハガキ道という未だ誰もなしえなかった一道を拓かれた坂田道信先生。私にとっては、昨年(2022年)6月に開催された「広島ハガキ祭り」で奥様と3人で撮った満面笑顔の坂田先生のお写真が最後のものとなった。
晩年の坂田先生は、ハガキを通して確かに悟られている節があった。富士山に登る道は違っても、頂上にたどり着けば同じ景色が見えるのであろう。坂田先生はハガキを通して、人間学の頂上に登りつめたのだと思う。
森信三先生の書翰集の中に昭和52・12・10付の手紙がある。「坂田成美様、『城山だより』拝受。そして今朝『むかしむかし』を読み了った時、私は思わず嗚咽慟哭を禁じ得ませんでした。」とある。そして、その「むかし むかし」の詩の最後のところに坂田先生はご自分と寺田一清先生のことを「師をしたい はげましあい 心ゆたかに 生き抜いたそうです」と締めくくられた。
森信三先生、徳永康起先生を師とされた坂田道信先生も寺田一清先生を交えて、今は天国でお互いに交友を深めておられることでしょう。そして全国各地で広がっているハガキを通しての交流は今後も続きます。
坂田道信先生、本当にありがとうございました。
森信三先生は、
「あなたが生まれてくる時、天から一通の封書をいただいています。そこにはあなたのこの世での使命が書かれています。 ところで、あなたはその封書を開いて自分の使命を確かめましたか」
とお尋ねになります。それに対して、殆どの人が答えにくいのです。 自分の使命がはっきりと自覚できていないからです。
坂田様は29歳の時、森先生が主宰されている「実践人の家」松山研修会で、初めて先生にお遇いして、先生から「『複写ハガキ』を書きなさい」と言われ、読み書きをすることで、人は一番育つのだと教えていただいたのでした。
それからの坂田様は、50余年間ひたすら師の教えに従い、複写ハガキを書き続けているうちに、全国に「ハガキ道」というネットワークが出来上がってきました。そこで坂田様は、「ハガキ道伝道者」という肩書がつくようになりました。
私が心に残っている坂田様の「むかし むかし」という詩があります。
「むかし むかし/師を同じくする/一人の呉服屋さんと/百姓がいました/二人は/めぐまれた境遇では/ありませんでしたが/師をしたい/はげましあい/心ゆたかに/生き抜いたそうです」
この詩を贈られた森先生は、お礼のハガキに「これを読んだ時、鳴咽、慟哭を禁じ得ませんでした」と喜ばれました。
現実の世界では、坂田様とお別れする悲しみは、どうしようもありませんが、目を転じて、彼岸の世界では、先に魂の故郷に還られた森信三先生、徳永康起先生、寺田一清先生、森迪彦さんらに、坂田様は出迎えられ、手を取り合って喜んでおられることでしょう。坂田様は、森先生のことを「心の親様」としたわれていただけに、再会の喜びはひとしおのものがおありでしょう。
月刊『致知』3月号の私との対談の中で、坂田様がおっしゃった「『365の金言』を読んだ皆さん一人ひとりに、争いのない、互いが分かち合えるような人類の新しい文明の扉を開いてほしいと願っておるんです」というお言葉が、私たちに残された坂田様の御遺言だと思います。
「師の教え 一すじの道貫きて 世に光灯し 君逝けり」
坂田道信様 さようなら ありがとうございました。
致知出版社から坂田先生が83歳でお亡くなりになったとうかがい、驚きました。まだまだお元気で、もっと長生きされると思っていました。
坂田先生を思うと「天真」の2字が浮かびます。偽りのない、真っ正直な天真の人でありました。令和3年の『致知』8月号で、寺田一清氏を偲ぶ「現下の仕事に祈りをこめて」という題で対談をさせてもらったことを思い出します。森信三先生のこと、寺田先生のことを、あの独特の大きなお声で熱意をこめて語ってくださったのでした。
対談は、原宿の致知出版社の本社で、6月の午後行われ、夕方私は鎌倉に帰りました。坂田先生は都内に一泊されると聞きましたが、対談の翌日には、お礼のハガキが私の元に届きました。これには驚きました。
何事もその時、その場で拙速をよしと心がけてきた私も、これには兜を脱ぎました。まさしくハガキ道の人でありました。
今の世に、先生のような「天真の人」に出会えたことを感謝しています。
謹んでご冥福をお祈りします。
坂田道信さんと最後にお話をしたのは、お亡くなりになる前日の3月13日でした。
1月の下旬に入院され、40日ぶりにご自宅へ戻られた時に電話をくださったのです。
坂田さんはその折、発刊を殊の外喜ばれていた弊社の『森信三 運命をひらく365の金言』に言及して繰り返しおっしゃいました。
「私がこの本をたくさんの人に紹介し、600冊以上の注文をいただいたのは、ハガキ道を通じて多くの知人がいたからだと思っていましたが、それは間違いでした。この本がたくさんの人に求められるような時代を、致知出版社さんが長い歳月をかけてつくり上げてくれておったのです。
私はこれまでハガキ祭りを催して、たくさんの心ある方々と交流してきましたが、祭りはその場限り。これからは、この『365の金言』の読書会を通じた人づくりが大事だと実感しております」
電話の向こうの声は、退院したばかりのことでいつもの元気こそありませんでしたが、その口調からは内に秘めた情熱がひしひしと伝わってきました。最後に、
「元気になって、9月16日に行われる『致知』創刊45周年記念式典にはぜひ出席したい」
との言葉を残して電話を切られた坂田さん。よもやその翌日に訃報に接することになろうとは、考えも及びませんでした。
「ぜひ紹介したい人がいる」と、森信三先生に坂田さんとのご縁を結んでいただいたのは、昭和61年でした。当時46歳、既にハガキ道を通じて全国に多くのファンを持っていた坂田さんが、「ハガキを書くことは人生修行の道。ハガキが私に光を当ててくれた」とおっしゃっていたことは、いまでも強く印象に残っています。
坂田さんの偉大さは、ハガキを書くという平凡な営みを非凡に継続し、道にまで高めていかれたことです。そういう坂田さんを森先生は妙好人、真実の信心をいただいた人と評されていました。
『致知』に深い共感を寄せてくださっていた坂田さんは、弊社、そして私自身にとって格別の存在でした。私たちにたくさんの学びと感動を与えてくれたあの〝坂田節〟をもう二度と聴けないと思うと、誠に寂しい限りです。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
坂田道信氏の言葉
どんな人と一緒になっても、どんなことにでくわしても、つぶされない人格をつくり、幸せに楽しくいられる人になりたい。
その人の実力は友達の数である──。頭、悪くてもいいんです。頭のいい人を友達にすればいい。お金、なくてもいいんです。お金持ちを友達にすればいい。国語ができない人は、国語ができる人を友達にすればいい。友達をつくる技術が生きる技術です。
私たちは拝まれとる存在。拝み返すというのは、「感謝」をすることでもいいんです。ハガキ道というのは、拝み返す世界です。ハガキを書いたら売り上げが上がるとか、いいことがいっぱいある、手に入らんものはないくらいです。でもそれは表面的なことです。
人間にはそれぞれ条件が与えられていて、多くの人は条件が揃えばもっといい人生が送れると思っている。だけど本当はその条件でぴったんこなんです。その条件で見事に生きられるようにセットされているんです。足りないものは一つもない。
私は考えられないような貧乏でね、病弱でね、散々悔しい目に遭ったけど、ハガキに出合ってものすごくおもしろい人生をつくり出すことができた。だから私にとってハガキは「道」なんですよ。「道」というのは、命のことです。生きる神髄、命の活性化といってもいい。
ハガキを書いたら人生がおもしろくなりますよ。
生きるというのは、この広い日本の中で自分が波長の合う人と結びつき、自分自身のネットワークをつくるということです。
手を抜いていたら、幸せはやってきません。
よく私たちはツイとる、ツイとると言うでしょ。年に数回はツイとることが起こるでしょ。自分の実力以上のことが起こるでしょ。でも私は感謝することを知ったおかげで、毎日がツイとる人生を歩かせてもらえるようになりました。
私は欠点を持った人間だから、威張らない。
生きるというのはつながるということです。ハガキを書くことで1人とつながれば、それは1,000人とでもつながることが可能です。
とにかく続けることで上手、下手を超えた世界が開ける。
ハガキを書こうと思ったら、相手のいいことや感動したことばかり思い出すでしょう。相手の欠点を見んようになるんです。
人間、たった一個いいところがあればいいんだよね。神さん、仏さんは、そのいいところで生きていけるように仕組んでくれたんじゃないかという感じがする。