2023年6月号
特集
わが人生のうた
対談
  • 北里大学特別栄誉教授 大村 智おおむら・さとし
  • NPO法人日本国際童謡館館長 大庭照子おおば・てるこ

よき人、よき言葉
との出逢いが、
わが人生を導いてきた

寄生虫病などに罹った数億人の命を救ってきた特効薬イベルメクチンを開発し、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村 智氏。人生の山坂にも屈せず、日本の心を伝える童謡の普及に情熱を傾け続けてきた歌手の大庭照子氏。「世のため人のため」という志を胸にそれぞれの道を深めてきたお二人が語り合う、忘れ得ぬ出逢い、糧にしてきた言葉や教え、越えてきた艱難辛苦、その中から紡がれてきたわが人生の詩——。

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本対談は、大村智氏の生まれ故郷・山梨県韮崎にらさき市神山町にある韮崎大村記念公園にて行われた。

山梨における文化拠点を目指して

大庭 大村先生、きょうはこのような機会をいただき、本当に光栄です。しかも、富士山を望むこんなに素晴らしいところで……。
私がここ韮崎大村記念公園を最初に訪れた12年ほど前は、大村先生の生家と温泉施設、美術館(韮崎大村美術館)しかありませんでした。ところがその後、お蕎麦そば屋さんができ、いま日本庭園が整備され、まあ、今度はお茶室ができるというではありませんか!
ですから、多くの人にこの場所を知ってほしいとの思いで、東京ではなく、ぜひ韮崎大村記念公園で対談をと、わがままを言わせていただきました。私の我儘を聞き入れてくださってありがとうございます。

大村 私はかねて日本の発展のためにも東京一極集中はよくないと言ってきたのですが、そもそも地方に何もなければ人も来てくれないじゃないですか。ですから、この場所も、人々が集まって来る山梨の文化拠点にしようという大きな構想があるんです。それに会社を経営している弟・朔平さくへいも賛同してくれましてね、2人の合作として取り組みを進めてきました。

大庭 ああ、弟さんと一緒に。

大村 最初は地域の方々のために温泉を掘り、次いで2007年に美術館をオープンさせました。
なぜ美術館かというと、もともと私は絵画や陶磁器など美術品がとても好きで、様々な作品をたくさん収集してきたのですが、縁あって女子美術大学の理事長に就いたことをきっかけに、女流芸術家の作品を集め始めたんですよ。
それでそのコレクションをもとに、全国でもあまり例のない女流芸術家を顕彰けんしょうする美術館をつくろうと考えたわけです。オープンの翌年には、美術品を鑑賞する喜びを多くの人々と共に分かち合いたい、故郷の芸術・文化振興に貢献したいとの思いから、美術館を市に寄贈させていただきました。
もちろん、洋画家の鈴木信太郎先生など、様々な作品を展示していますけれども、女流芸術家たちの作品を常時見ることができるのは、おそらくこの美術館だけでしょう。あと、世に出ていない若い作家の作品を集めて紹介していくことにも力を入れてきました。

大庭 大村先生の思い入れの詰まった特別な美術館なのですね。

大村 で、温泉は地元の方が中心でしたが、やはり美術館には遠方からいらっしゃる方が多くて、近くに食事できるところはないかということになりましてね。今度はお蕎麦屋さんをつくった。これがまたおいしいと好評なんです。
まあ、そういうことを続けていると、幸いにも私の生家と蔵が2020年に国の登録有形文化財に指定されました。それにいま移築を進めているお茶室も文化的価値が高いものですから、庭園を含めてもろもろ整備されれば、まさに山梨の文化拠点になるんです。

北里大学特別栄誉教授

大村 智

おおむら・さとし

昭和10年山梨県生まれ。33年山梨大学学芸学部卒業。38年東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了。40年北里研究所入所。米国ウェスレーヤン大学客員教授を経て、50年北里大学薬学部教授。北里研究所監事、同副所長等を経て、平成2年北里研究所理事・所長。19年北里大学名誉教授。20年北里研究所と北里学園との統合により北里研究所名誉理事長(現在は北里大学特別栄誉教授)。27年ノーベル生理学・医学賞受賞。著書に『人をつくる言葉』(毎日新聞出版)『ストックホルムへの廻り道 私の履歴書』(日本経済新聞出版社)など。

2人の人生をひらき、導いてきた文子さん

大庭 ところで、先生との出逢いのきっかけは2000年にお亡くなりになった奥様の文子さんでしたね。これも本当に不思議なご縁で、いまから約30年前、ある生放送のテレビ番組の取材を受けた時に私が1曲歌ったんです。その番組を奥様が偶然ご覧になり、すぐ事務所に電話をくださった。
でも当時の私は、各地の学校で歌うスクールコンサートの仕事が忙しく、失礼ながら対応できませんでした。それでも何度も連絡をくださったので、これまた失礼ながら代理のスタッフを行かせたところ、奥様にすごくよくしていただき、スタッフは「素晴らしい方でした。なるべく早くご挨拶に行ったほうがいいです」と(笑)。
それで初めてお目に掛かった時から、奥様は「主人は見た目はえないけれど、必ずノーベル賞を受賞する才能がある。だから、主人が研究に没頭できるように、私は本当に一所懸命に働いてきたのよ」といつもおっしゃっていました。後に体調を崩して入院されてからも、先生への信頼は変わりませんでしたし、「鈴木陽子さん(現・大村氏の秘書)がいれば、何があっても主人は絶対に大丈夫よ」と力強くおっしゃっていました。
そうして交流が始まり、ほどなく先生が設立された北里研究所メディカルセンター病院(現・北里大学メディカルセンター)で音楽会を企画してくださったのです。

大村 そうでした。1989年に設立した北里研究所メディカルセンター病院は、設計段階から院内に絵をたくさん展示できるように考え、実際にいままで集めた絵は1,800点くらいになっていると思います。さらに絵だけでなく、エントランスホールも音響効果を考えた設計になっていて、椅子を片づければ、300人くらい入るコンサートができるようになっているんですね。ここで大庭さんに童謡を歌っていただいたのでした。

大庭 せっかくの機会なので、もう少し奥様のことをお話しさせていただきますと、1994年に私の地元・熊本にオープンした日本国際童謡館の運営が次第にうまくいかなくなり、周りからさーっと人が去っていった時も、「大庭さん、どうしていますか」と、奥様は変わらず連絡をくださいました。
そして日本国際童謡館のことで金銭的にも厳しい状況にあることを伝えましたら、その頃は病気が進んで腕がれてつらそうでしたけれども、奥様は詳しいことはせんさくなさらず、快く支援を申し出てくださった。そのおかげで危機を乗り越えることができたのです。
ですから、奥様は私の恩人でもありますし、大村先生の才能を心から信じ、思いやりにあふれた素晴らしい方でした。実際に先生は2015年にノーベル賞を受賞されますから、まさしく奥様の言われた通りになったわけですね。

大村 大庭さんがいまおっしゃったように、家内は研究で忙しい私に代わって、子供の養育から冠婚葬祭、交流する研究者のもてなしまで一手に引き受け、研究に専念できるように心をくだいてくれました。体調を崩してからも、知り合いが同じ病院に入院してきた時などには、てんてきをつけたまま下まで降りていって、手続きを手伝ったり、お医者さんを紹介したりしていました。そんな家内の支えがあって、いまの私があるんです。

大庭 大村先生、このことは覚えていらっしゃいますか。奥様が亡くなられた後、高田真理さん(日本国際童謡館理事長)と研究室までお伺いした際、応接間のソファーで話しながら先生が、声は出されませんでしたけれども、わーっと涙を流されたんですよ。その深い悲しみに接して、先生にとって奥様の存在がどれほど大切であったか、痛切に伝わってきました。

NPO法人日本国際童謡館館長

大庭照子

おおば・てるこ

昭和13年熊本県生まれ。35年フェリス女学院短期大学音楽科声楽科専攻科卒業。46年NHK「みんなのうた」で『小さな木の実』を歌い童謡運動家の道へ進み、「大庭照子のスクールコンサート」を全国で開催。3,000校以上の学校を回る。現在はNPO法人日本国際童謡館館長として童謡を広める活動に力を尽くしている。