2022年11月号
特集
運鈍根
対談
  • 禎心会脳疾患研究所所長(左)上山博康
  • 総合新川橋病院副院長(右)佐野公俊

医の一道を歩み続けて
掴んだ仕事の要諦

多くの医者が「治らない」「助からない」と匙を投げた患者さんを〝最後の砦〟として受け入れ、命を救い続けてきた脳神経外科医がいる。佐野公俊氏と上山博康氏である。戦後日本の脳神経外科を牽引し、患者さんのために己のすべてを懸けて病気と闘い続けるお二人に、医療への熱い想い、いまだからこそ後進に伝えたい人生・仕事の要諦を語り合っていただいた。

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患者さんと共に最後まで戦うのが名医

佐野 上山先生と初めてお会いしたのは確か1980年頃、日本脳神経外科学会の席でしたね。
私のほうが上山先生より3年ほど上になりますけれども、先生の師匠である伊藤善太郎先生とは仲が良くて、彼がいた秋田県立脳血管研究センターを訪ねては、「この手術はああでもない、こうでもない」と、よくおしゃべりしました。

上山 だから、関係としては、佐野先生は僕の兄貴分ですよね。
僕は60歳を過ぎて気づいたことがあるんです。それは医者には治せない病気がたくさんある、医者はいろんなテクニックを使って、患者さんたちの生活の質が下がらないよう、キープしてあげることしかできないということです。
特に脳外科医が対処できる病気というのはごく限られる。例えば認知症なんて脳外科医は何もできません。それでも限られた病気への手術のクオリティを徹底して高めようと闘ってきたのが佐野先生であり、僕だと思っています。

佐野 そうですね。ただ、もう少しすると、私たちがやってきた手術はなくなっていくかもしれません。ひと昔前には、くも膜下出血や脳卒中でも、術後ほとんど亡くなっていました。しかし顕微鏡を使った手術が入り、CTという診断器機が生まれ、どんどん助かるようになっていった。ところが、いまは便利なカテーテルの時代になり、手術できる人が少なくなっているんです。カテーテルで対処できない症例は簡単に無理だといって放り投げてしまう。

上山 どんな症例でも手術で全部片づけてきた僕らは、いずれ「マンモス」扱いされるかもしれませんよ。いま先生がおっしゃったように、治療法が発達した半面、しっかりした手術ができる脳外科医がものすごく減っていますね。これは本当に由々しき状況です。
また、脳底動脈りゅうなどの難しい症例は避けて、自分がやれるものだけを選ぶずるい医者が増えている。でも、佐野さんや僕は、他が治せないと見捨てた患者さんをどんどん受け入れて助けてきた。

佐野 前も、ある病院で助からないといわれた患者さんが紹介されてきましたが、これならできるよと言って、手術したら治りました。教育のために、その病院の先生にも手術を見に来てもらいました。

上山 僕はね、難しくて自分では手術できないからと、後輩が別の病院に紹介状を書いた時には、その文面に「悔しいけれども、いまは実力がなくてできません」とひと言加えろって言うんです。要するに、「次はやってやる」という気合いがないと駄目なんだよと。また、今後も同じ症例でずっと紹介状を書くつもりなら、とっとと医者を辞めろって叱るんです(笑)。もっとやる気と気合いを持った人間に場所を譲りなさいってね。
だから、いまの若い医者はスマートなんです。のたうち回って、無様な姿を見せてでも自分の限界を求める、患者さんと向き合おうとする泥臭さがないんです。本当に格好いい人って、スマートじゃない。必死な泥臭い人ですよ。

佐野 そうだよね。簡単にできる症例だけやっていればスマートでいられる。私も手を尽くしたけれどを出してしまった患者さんのリハビリを見に行ったり、亡くなってしまった患者さんの葬儀に参列して、ご遺族に頭を下げたことがあります。「力及びませんでした」って。でも、難しい症例やつらいことから逃げていたら、絶対に成長はないですし、一所懸命に誠意を尽くせば、その姿勢は患者さんやご家族にも伝わるんです。

上山 私も失敗した時には、すぐ患者さん、ご家族のもとにいって「私の責任です。すみませんでした」って頭を下げます。そのためか、厳しい症例ばかりやってきたにもかかわらず、これまでにただ一度も訴訟がないんです。したり、自分が正しいという姿勢でいるから裁判になるんですよ。
少し前、5つくらいの病院に断られ、私のところにやってきた患者さんのご家族に、「難しい症例です。治せる自信はありません。ただ、やらなきゃ100%死にます。勝ち目は薄いですが、やらせてください」って伝えたら、「その言葉を聞きたかったんです」と泣き出しましたよ。そこを見捨てたら医者やっている意味がないんです。
一点でも助かる可能性があれば手術をやる。絶対に逃げない。その信念を貫いてきたからこそ、佐野先生も僕も、〝最後のとりで〟と呼ばれるようになったんでしょう。

佐野 ちなみに、その手術はうまくいったのですか。

上山 うまくいきました。手術が終わり、ご家族のもとにいった私の第一声が「勝ちました!」です。もう震えるぐらい嬉しかった。
だから、どんなに難しい状況でも徹底して患者さんと一緒に戦ってあげる。沈む船であっても最後まで逃げないで乗り続けてくれる医者。それが名医だと思います。

総合新川橋病院副院長

佐野公俊

さの・ひろとし

昭和20年東京都生まれ。45年慶應義塾大学医学部脳神経外科入局。51年藤田保健衛生大学赴任。同救命救急センター長、藤田保健衛生大学医学部脳神経外科主任教授などを歴任し、平成22年同大学名誉教授、同大学医学部脳神経外科客員教授。総合新川橋病院副院長、脳神経外科顧問。日本脳神経外科学会理事・監事、世界脳神経外科連盟脳血管障害部門委員長など要職多数。12年、13年開発したクリッピング手術数でギネスブックにも登録。現在、主に川崎と名古屋で手術と外来を行っている。

日本の脳外科の新たな道を切り開く

上山 ところで、佐野先生はどのようなきっかけで医者の道、脳外科医の道を志されたのですか。

佐野 私は母方が医者の家系で、母親から「医者になれ、医者になれ」って洗脳され続けてきたんですよ。また、父親が時計屋を営んでいたこともあって、子供の頃からものをつくるのが好きでしてね。叔父は内科医でしたが、自分は医者になるなら、手を動かす外科医がいいだろうと考えたんです。
なぜ外科の中で脳外科を選んだかということですが、当時はバイポーラ(止血器)やCTもありませんでしたから、「脳の手術をしたら死んでしまう」といわれた時代でした。叔父からも脳外科医になることに強く反対されました。
でも、大学で病院実習をした時に、耳鼻科の鼓室こしつ形成などで使われていた手術用顕微鏡を見て、「これを脳外科に持ってくれば正確な手術ができるんじゃないか、自分が日本で最初にマイクロサージャリー(顕微鏡手術)をやろう」と思って脳外科に入ったんです。

上山 新しい道を切り開いていこうと決意された。

佐野 それで研修医時代、その頃はまだ車1台分くらいの値段がしたハンディマイクロスコープを月賦げっぷで購入し、それをいろんな病院に持っていって手術しました。皆は肉眼でやっていますから、「うまいもんだな」ということで、脳外科に入って1年目から顕微鏡手術に関するほとんどを担当させてもらえるようになったんですよ。
当時、脳外科でやっていたのは血だらけの手術で、止血が難しいと先輩たちは言うのですが、顕微鏡を使えばそもそも血が出ないんです。血を出してから止めるのではなしに、出さないでやると。
で、1976年に新設の藤田保健衛生大学に行ったのですが、脳外科医が私を含めて4人しかいなかったんですね。それも一人はインドからの留学生だから実質は3人でした。卒業生が出るのも私が行った2年後ですし、出た後でも彼らにすぐ手術させるわけにもいきませんから、結局5年、10年は全部自分で手術しなくてはいけませんでした。膨大な数ですよ。そうして数を重ねていく中で技術が飛躍的に伸びていったんです。これが私の外科医としての原点だね。

上山 とはいえ、顕微鏡下での手の操作など、かなりの努力、訓練を積まれたのではないですか。

佐野 ええ、最初は毎日30分ほど顕微鏡下で手を動かす練習をしたり、利き手ではない左手で食事をするなど訓練を続けました。
あとは、伊藤善太郎先生もそうですけれども、上手な先生がいると耳にすれば、実際に手術を見に行って「なるほど。ああいうふうに手を動かせばよいのか」「あの先生は吸引管をこう持つけど、あの先生はこうやっている」などと、よいところはどんどん取り入れていきました。手術は外で見るんじゃなくて、必ず手術室に入れてもらっていましたね。やっぱり顕微鏡の中だけを見ていては、分からないことがいっぱいあるんです。

上山 いろんな人のよいところを学ぶ。とても大事なことです。

佐野 だから、私にはこの人という師はいません。試行錯誤をしながら自分なりのやり方、佐野式の手術を確立していったんです。

禎心会脳疾患研究所所長

上山博康

かみやま・ひろやす

昭和23年青森県生まれ。48年北海道大学医学部卒業、同部脳神経外科教室に入局。55年秋田県立脳血管研究センターへ転勤。60年北海道大学医学部へ戻り、同部助手、講師などを経て、平成4年旭川赤十字病院脳神経外科部長に赴任。10年より同院急性期脳卒中センター長を兼任。24年より社会医療法人禎心会脳疾患研究所所長。