弊誌ともご縁が深かった茶道裏千家前家元の千玄室氏が、8月14日午前0時42分、逝去されました。享年102。
千氏は大正12年、千家の長男として京都でお生まれになりました。同志社大学在学中に応召、特別攻撃隊としての訓練を受け、鹿児島県鹿屋の海軍基地で多くの戦友を見送ったことが人生の大きな転機となりました。日本の未来のために身を捧げ沖縄の海で散華した戦友の思いに報いんと、戦後は「一盌からピースフルネスを」の理念を掲げ、国内外で茶道の普及に尽力。国際親善に大きく貢献してこられました。
一方、千氏は茶道や禅の修行を通して自己に厳しく立ち向かう求道者でもありました。復員後、茶道の稽古を本格的に始めた氏に先代が語った「死んでからが修行だ」、また、禅の師・後藤瑞巌老師に教えられた「破草鞋──自分の草鞋が破れて裸足になっていることすら気づかないくらい前進しなさい」という言葉は、その後の人生を導く羅針盤となりました。
100歳を過ぎてなお茶道の普及のために国内外を飛び回り、今年(2025年)5月に転倒、歩行が困難になった後も、リハビリ生活をしながら最期まで精力的に活動されたといいます。その姿勢は、まさに先代や後藤老師の教えそのものであり、一生一事一貫の人生を生きる尊さを教えられる思いです。
弊誌に初めてご登場いただいたのは1984年1月号。以来、今日まで対談やインタビューに幾度もご登場いただき、2017年5月号から2022年6月号まで五年間にわたって「巻頭の言葉」の執筆陣を務めてくださいました。
弊社主催の新春特別講演会では講師を3回務めていただき、年齢を感じさせない軽やかな身のこなし、滋味溢れる講演は千人を超える聴衆を毎回魅了し、大きな感動を与えました。
とりわけ今年1月の講演会では、100歳を超えてなお立ったまま身振り手振りを交えてぴったり1時間、「生きる力」の演題で日本が取り戻すべき伝統文化の素晴らしさや価値を切々と訴えられました。終了後は異例のスタンディングオベーションの中、聴衆と握手を交わしながら会場を後にされましたが、心に深く沁み入るこのお話が図らずも弊社主催行事での最後のご講演となりました。
また、千氏は弊誌の理念や人間学の意義に深く共鳴され、弊誌の支援者のお一人でもありました。氏のこの思いに応え続けることが弊誌の使命と自覚し、より一層の誌面の充実に努める所存です。
生前の一方ならぬご厚情に感謝申し上げつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
千玄室様とのお出逢いは60年ほど前に遡ります。私の師である五井昌久先生のご縁を通してお知り合いになることができたと記憶しています。
当財団の設立に尽力された瀬木庸介さんの奥様が玄室様の奥様と子供時代からの親友であり、また私が嫁いだ西園寺家も京都の公家として古くから千家との繋がりが深く、考えてみればこれも不思議なご縁というほかありません。
出逢った頃、まだ20歳前後だった私を平等に温かく見守ってくださり、至らない部分があれば親身になって助言くださったりと、私にはまるで父親のような存在であり、同時によき理解者のお一人でもありました。
玄室様は戦後、今日まで一貫して「一盌からピースフルネスを」の精神で、茶道を通した世界平和の実現に献身的に尽力してこられました。戦争で多くの戦友を失い、生き残ってしまったことへの悔恨、平和への強烈な願いが玄室様を茶道の普及へと駆り立てたと伺っています。
戦争体験者として、「世界平和の祈り」をはじめとする私たちの活動にも心から共鳴してくださり、当財団の行事などで献茶や講演をしていただくこともたびたびでした。初釜にもお招きいただき、最晩年は椅子に座ってのお点前でしたが、その凜とした立ち居振る舞いから、言葉では表現できないエネルギー、深遠な祈りを感じたものでした。
心から尊敬する大切な方を失い、一人取り残されたような寂しさはいまなお消えずにいます。私も気がつけば80代半ばとなりました。しかし、一人ひとりに内在する神聖の目覚めを促し、国境のない平和で平等な世界の実現に向けて、命ある限り歩み続けることが私のミッションであり、それこそが玄室様のご恩に応える道だと信じてやみません。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
まだ昭和の時代、私は京都建仁寺の修行僧でした。雨の中番傘をさして、小川通りを歩いていると、裏千家の兜門の前に黒塗りの車が止まって、当時家元だった大宗匠が颯爽と降りられました。門に入ろうとして、遥か遠くを歩く修行僧の姿に気づかれ、さっと傘を外して、深々と頭を下げられました。そして門にお入りになりました。
そのお姿に私は衝撃を受けました。世間的には裏千家の家元と、一修行僧とでは雲泥の差ですが、その修行している僧に敬意を表されるのは、実際に禅の道を歩んで来られた方だからだと思いました。
私が円覚寺の管長になってからも一度寺でお献茶をしていただいたことがありました。釈宗演老師の百年諱に向けて諸行事を行っている時でした。鎌倉では例年裏千家家元の献茶が2箇所でなされていて、更に円覚寺でお願いするのは難しいだろうと思っていました。しかし、大宗匠は御自らお越しくださいました。それは大宗匠の師匠である後藤瑞巌老師は、釈宗演老師の孫弟子に当たるからです。禅の法灯を重んじられてのことでした。
大宗匠に最後にお目にかかったのは、今年の1月『致知』の新春講演会の時でした。控え室には大勢著名な方がいらっしゃるので、私は挨拶せずに控えておこうと思っていました。しかし、私の姿に気づかれた大宗匠は、すぐ私の隣にみえて親しくお話しくださいました。
私にとっての大宗匠はどこまでも禅の人でありました。仰ぎ見る禅の人でした。
千玄室先生がお亡くなりになったと知ったのは、8月14日の早朝。弊誌でもお馴染みの上甲晃氏より一報を受けてのことでした。
私はその少し前に上甲氏から、千先生が体調を崩され、近々依頼していた講演が先に延びたことをお聞きしていました。いつも矍鑠となさっている千先生のこと。すぐに元気を取り戻して登壇なさるものと信じていた私は、突然の訃報に大きな驚きと衝撃を受けました。
1984年、『致知』でご対談いただいたのが千先生とのご縁の始まりでした。私どもの編集方針に深く共感してくださった先生には、以来40年余、幾度も誌面にて貴重なお話を賜り、また4度にわたり表紙を飾っていただくなど、多大なご支援を賜ってきました。年齢に関係なく常に相手を尊重する千先生は、遥か年下の私をいつも「藤尾先生」と呼んでくださり、面映ゆい思いがしたものです。
『致知』創刊45周年に際しては、以下のお言葉を賜りました。
「『致知』を愛読される方々が増えていることを心より嬉しく思っております。『致知』を編集し、今日迄の道をつくってこられた藤尾秀昭社長とは昵懇にさせていただいておりますが、『致知』は人間にとって大切な心を教える教養の月刊誌です。この誌がいま以上に多くの人に読まれることを望んでいます」
百寿に達してなお一道を歩み続ける哲人の言葉に、どれほど大きな勇気をいただいたことでしょう。私は先生にお目にかかる度に、この言葉を想起していました。
「さらに参ぜよ三十年」
中途半端なところで満足せず、いくつになってもこれからまた30年修養を続けることが肝要だということです。千先生はこれを身を以て教えてくださいました。
また、忘れられない先生の言葉が2つあります。
「三冬枯木の花」
「死んでからも修行」
12月、1月、2月と、1年で最も寒い季節に花を咲かせる枯木がある。人間もそれだけの気力をいくつになっても持たなければならない。そして志ある者は、死んでからも修行である。
人に対する時は穏やかでしたが、自分には厳しい人であったことが、こうした言葉からも窺えます。私もその生き方に倣い、一層の覚悟を持って『致知』の発刊と人間学の普及に尽力してまいる所存です。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
千玄室氏の遺した金言
お茶の精神は「和敬」なのです。どんな場合でも和やかに、どんな人も差別することなく接する。茶室に入れば、誰もが一緒である。利休はそれを教えているのだと思いますし、このことは私自身の信条でもあります。
恩師の後藤瑞巌老師から最後にいただいた公案が「破草鞋」でした。最初はさっぱり分かりませんでしたが、最近ようやく疑問が解けてきました。破れ草鞋は何も役に立ちません。自分の草鞋が破れている。それすら忘れて、裸足になってひたすら前進を続けよと。これがいまの私の心境です。
大切なのは、苦しみの多い人生であったとしても思いやりの気持ちを失わないで、他の人に対して手を差し伸べていくことではないかと思うのです。自分の手を使って他の人のために少しでも何かをして差し上げる、その喜びが自分に返ってくる。その時に人生の本当の幸せを感じられるのではないでしょうか。
令和7年1月の弊社主催新春特別講演会では立って1時間講演を続けられた
道とつくものは型だけじゃいけません。そこに血が入って初めて「かたち」となる。血を入れるとは本気だということです。
私は父から「修行というのは死んでからも修行やぞ」と言われました。いったん何かを志したら、どんなことがあっても、いや、あの世へ行ってもなお修行せよという、一つの厳しい道の教示でした。
1月の講演後聴衆に総立ちで見送られながら会場を後にされる(右側)