2022年2月号
特集
百万の典経てんきょう  日下にっかともしび(とう)
対談
  • 臨済宗国泰寺派全生庵住職(左)平井正修
  • 臨済宗円覚寺派管長(右)横田南嶺
明治の気概に学ぶ

今北洪川と山岡鉄舟の
歩いた道

幕末明治を代表する名僧・今北洪川。廃仏毀釈で仏教界が衰退する中、円覚寺管長に迎え入れられ、他に先駆けて一般の人々に禅の門戸を開いた。洪川のもとに参禅した人物は数多く、明治維新の英傑と称される山岡鉄舟もその一人である。剣・禅・書の達人にして江戸城無血開城を牽引し、明治天皇の侍従を務めた。二人の先達と縁の深い横田南嶺氏、平井正修氏が語り合う、二人の邂逅と交流、人格形成に影響を与えた両親や師の教え、心に響く名言、その生き方からいま私たちが学ぶべきこと(この対談は山岡鉄舟が創建した全生庵にて行われた)。

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「山岡君は、希有の大人なり」

横田 今北いまきた洪川こうせん山岡やまおか鉄舟てっしゅう、きょうは二人の先達について平井さんと語り合うということで、貴重な機会をいただきました。

平井 これは『致知』さんでなければまずやらない組み合わせですよね(笑)。私に横田老師の相手が務まるかおそれ多いばかりで……。

横田 いや、とんでもない。二人の接点といえば、洪川老師のもとに鉄舟居士こじが参禅したということです。それがいつ頃のことなのか、これまではっきりしなかったのですが、今回調べたところ、明治8(1875)年で間違いないかと思います。時に洪川老師60歳、鉄舟居士40歳。

平井 ちょうど20歳違う。

横田 洪川老師は長く厳しい修行を経て大悟だいごした後、岩国いわくに(山口県)の永興寺ようこうじにおられました。その時岩国藩主・吉川きっかわ経幹つねまさのために儒学と禅の一致を説いたのが『禅海一瀾ぜんかいいちらん』という書物です。その後明治8年、東京に新設されたお坊さんを養成する学校の初代校長に招かれて、本郷ほんごう麟祥院りんしょういんに移ります。それとほぼ同時に、円覚寺えんがくじが管長として迎え入れるんです。
儒学者・佐藤一斎いっさいの門下で教部省の役人をしていた奥宮おくみや慥斎ぞうさいは、洪川老師の『禅海一瀾』を読んで感動するんですね。それで洪川老師が東京にじゅうされたことを知って、両忘会りょうぼうかいという禅会を立ち上げた。
おそらくこれが、一般の方が老師の提唱ていしょう(説法)を聞いたり坐禅ざぜんをしたりできるようになった最初じゃないでしょうか。そこへ鉄舟居士も通うようになるわけです。明治8年11月20日付の奥宮慥斎の手紙の中に、
「両忘社中も次第に人員くわわり、山岡銕太郎てつたろうナド参社はなはだ愉快ニそうろう
と書かれています。

平井 鉄舟先生は明治5年から10年間、明治天皇の侍従じじゅうをされていますから、ちょうどその頃に邂逅かいこうを果たされたわけですね。

横田
「山岡君は、宰官さいかんの身にして余が禅社に入り、古徳の誵訛ごうか因縁(禅問答の難問)に参得す、まさにおもえり、希有けう大人だいにんなりと」
洪川老師の言葉を見ると、鉄舟居士を大変めていることが分かります。「希有の大人」、これなんかすごい言葉だなと思います。

臨済宗円覚寺派管長

横田南嶺

よこた・なんれい

昭和39年和歌山県新宮市生まれ。62年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。平成3年円覚寺僧堂で修行。11年円覚寺僧堂師家。22年臨済宗円覚寺派管長に就任。29年12月花園大学総長に就任。著書に『人生を照らす禅の言葉』『禅が教える人生の大道』『十牛図に学ぶ』など多数。本対談の関連本に『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』(いずれも致知出版社)。

今北洪川が山岡鉄舟に宛てた偈

横田 しかしその後、鉄舟居士が明治15年に侍従をお辞めになって出家しようと思ったのに対し、洪川老師は「坊さんの真似まねをする必要はない。自分の道を貫けばいいんだ」といさめたといいますね。

平井 その時、洪川老師からもらった手紙はいまも残っています。これがその現物です(左掲)。

横田 素晴らしい。手紙が残っているとは恐れ入りました。原文はすべて漢文ですが、読者のためにの読み下し文と意訳を紹介しておきましょう。
木食草衣もくじきそうえいまだ真の道ならず。王事おうじ鞅掌おうしょうして、道、はるかなるによろし。唐朝とうちょう幸いに先賢の跡有り。う、顔公がんこうと境涯を共にせんことを」
(木の実を食べ草の衣を着るような出家の禁欲生活はまだ本当の道ではない。政治家として君に仕え国家に尽くす中に道がある。その道はもっと大きくはるかなものだ。幸いに唐朝に学ぶべき賢人の行跡がある。かの顔真卿がんしんけいと同じように王事に尽くして頂きたい)
洪川老師にしてみれば、侍従を引退せずもっと国のために尽くせという気持ちだったのでしょうか。

今北洪川が山岡鉄舟に送った手紙(真筆)「木食草衣未真道 鞅掌王事道宜賖 唐朝幸有先賢跡 乞与顔公共境涯」

平井 ただ、鉄舟先生は最初から10年経ったら辞めるという腹積もりだったようです。出家についてはどうもはっきりしなくて、鉄舟先生が洪川老師に直接その思いを伝えたわけではないんですよね。洪川老師がどこからかれ聞いて手紙を出したということだと思いますので、本当にお寺に入るという意味での出家だったのか、真意は定かではありません。
平沼ひらぬま専蔵せんぞうという事業家が子供を亡くして出家したいと言ってきた時に、鉄舟先生は「かたき討ちをするくらいの意気込みでさらに商売に精励しろ」と諌めていますしね。
また、鉄舟先生のところに弟子が来て『臨済録りんざいろく』の提唱をお願いした時に、「俺は坊さんじゃないから洪川老師のところへ行け」と。弟子が「洪川老師の『臨済録』はもう聞いたのでぜひ鉄舟先生に」と言ったら、道場へ連れていき、ひとしきり剣の稽古けいこを見せ、「分かったか」と。つまり、『臨済録』をただ単に書物だと思ってもらっては困ると。

横田 頭の知識として『臨済録』を読むのではなく、自らの生活や行動に生かすことが大事だという意味ですね。

平井 そういうことを伝えているくらいですから、おそらくお寺に入る考えはなかったのでしょう。

臨済宗国泰寺派全生庵住職

平井正修

ひらい・しょうしゅう

昭和42年東京都生まれ。平成2年学習院大学法学部政治学科卒業。静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。13年同道場下山。15年より、山岡鉄舟が明治時代に建立した全生庵の第7世住職を務める。著書に『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)『囚われない練習』(宝島社)『男の禅語』(三笠書房)など多数。本対談の関連本に『活学新書 山岡鉄舟修養訓』(致知出版社)。