2022年4月号
特集
山上 山また山
対談
  • 井村アーティスティックスイミングクラブ代表理事(左)井村雅代
  • 女子ソフトボール日本代表監督(右)宇津木麗華

世界の頂点への道のり

東京2020オリンピックにて、4位入賞を果たしたアーティスティックスイミングと金メダルを獲得した女子ソフトボール。それぞれの指導を務めた井村雅代さんと宇津木麗華さんは、常に世界の頂上を目指してチームを強化し、勝利を掴んできた。今回、前例のないコロナ禍でのオリンピックとなったが、いかに選手を鼓舞し、チームを導いてきたのか。お二人の指導に懸ける熱い思いを交えて伺った。

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宇津木監督が日本国籍を取得した真意

井村 こんにちは。久しぶり! 元気にしてた?

宇津木 お久しぶりです。昨日、井村さんも親しくされている女子ソフトボール日本代表元監督の宇津木うつぎ妙子たえこさんに井村大先生に会うことを電話で伝えたら、非常に会いたがっていました。

井村 ああ、なつかしいですね。私が麗華さんと初めてお会いしたのは、確か2000年のシドニーオリンピックの時でしたよね。

宇津木 そうです。私がまだ選手の時で、たまたま開会式で井村さんが後ろにいらして、今回の日本代表でコーチを務めた山路やまじ典子が井村さんに「もし自分がシンクロをやるとしたらどのポジションになるか」と尋ねた時に、「あんたは土台や。土台、土台」と3回くらい連呼していて(笑)。
そのあと驚いたのが、「土台というのは、水から上がらないよ。水の下にずっといる土台や」と。
その頃の私はまだ中国から日本に帰化したばかりで日本語がうまくなかったので、その会話を横で聞いていて、「ああすごい」とただただ圧倒されました。それが井村さんの第一印象で、いまでも忘れられないです(笑)。

井村 だってソフトボール選手たちは足腰ががっちりしているから、チームにものすごくほしい(笑)。
その時の私の印象は、とにかく明るいチームだなと。妙子さんが監督を務めていらした頃ですが、ソフトボールの選手を見て、その明るさに驚き、こういう集団がオリンピックでメダルを獲っていくのだと感じたことを覚えています。

宇津木 実はその4年前のアトランタオリンピックの時、指導者が多くてチームが少し混乱していたんです。それでシドニーでは「自分が責任を取るから」と妙子さんがすべての権限をもらって、一体感のあるチームをつくり上げました。やっぱり妙子さんは一流の指導者です。

井村 そう、船頭は何人もいりませんからね。

宇津木 全日本の監督を初めて女性が務めたこともあって、妙子さんは結構周囲から圧力をかけられたり、嫌がらせなんかもあったりしました。それでもソフトボールのために一所懸命頑張る妙子さんの姿を見て、こんなに頑張っている女性はいないから妙子さんの役に立ちたいと思い、1994年、31歳の時に日本に帰化したんです。「必ず宇津木という名前を世界に知ってもらうようにするから、宇津木という苗字みょうじをもらいます」と、若い頃は随分偉そうなことを言っていました(笑)。

井村 自分の国籍を変えるのは簡単にできることではないですよ。

宇津木 親と違う国籍になってしまうことには特に抵抗がありました。でもそれ以上に、妙子さんの思いがチームや世間になかなか伝わらないなら、自分が選手として真っ先に妙子さんの思いを行動に移そう。皆が打てないところで私が打って、妙子さんを勝たせよう、そう思っていたんです。

井村 麗華さんの生き方、格好いいですね。何年か前にJOC(日本オリンピック委員会)の取材で一緒になった時に、お父様が「どこに行っても自分の子供だから」と言って送り出した話をされていましたが、ご両親も素晴らしいんです。そうじゃなかったら国籍は変えられないもの。

宇津木 最初は当然反対でしたが、父にまず妙子さんを会わせたんですよ。私が説明するよりも何倍も説得力があるので。そうしたら、「ああ、この人だったら安心して任せられる」とパッと見ただけで分かってもらえました。

井村アーティスティックスイミングクラブ代表理事

井村雅代

いむら・まさよ

昭和25年大阪府生まれ。中学時代よりシンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)を始める。選手時代は日本選手権で2度優勝し、ミュンヘン五輪の公開演技に出場。天理大学卒業後、大阪市内で教諭を務める傍ら、シンクロの指導にも従事。53年日本代表コーチに就任。平成18年より中国、イギリスの指導を経て、26年日本代表ヘッドコーチに復帰。28年リオ五輪ではデュエット、団体とも銅メダルを獲得。令和3年の東京五輪では4位入賞。五輪でのメダル獲得数は通算16個。著書に『井村雅代コーチの結果を出す力』(PHP研究所)など。

メダルは一か八かの勝負に出て掴めるもの

宇津木 井村さんに初めてお会いしたシドニーオリンピックで私は3本のホームランを打ち、女子ソフトボールの銀メダルに貢献することができました。でも、これも妙子さんから「ホームランを打て」って指示されたからなんですよ。

井村 打てと言われて打てるものじゃないよ(笑)。

宇津木 大会序盤は1試合1安打で十分満足していたんですけど、妙子さんは私以上に私の実力を分かっていて、そう指示したのだと思います。当時のチームは「大一番になると打てない」というレッテルを貼られていて、それをくつがえしたいという妙子さんの思いもひしひしと感じていました。
ですから私が、「ホームランを狙うと三振かホームランになります。それでもいいですか。チームプレーではなくなります」と聞くと、「いや、それこそがチームプレーだよ」って。

井村 ええこと言いますね! その一か八か、三振かホームランって本当にその通りなのね。元競泳選手で、スポーツ庁長官も務めた鈴木大地さんが1988年のソウルオリンピックで金メダルを獲った時、監督の鈴木陽二さんに「あの金メダルは狙っていたんですか」と聞いたことがあります。そうしたら、いま麗華さんがおっしゃったのと同じで、「一か八かだった。決勝戦に進むのは8人だから、1番か8番を狙った」とおっしゃっていたことを思い出しました。

宇津木 実は、今回の東京オリンピックで金メダルを獲得できたのもまったく同じ発想なんです。15名の代表選手を決める際、私は決勝戦に勝つためだけにメンバーを選びました。ソフトボールは長年アメリカが王者として世界のトップに君臨しており、そのアメリカと決勝戦を戦った時に、勝利することだけを考えた。途中の試合が苦しかろうが負けようが、決勝に進んだら絶対に勝てるチーム。もう賭け事と同じですよね。たとえ決勝に進んでも、優勝できなかったら意味がないですから、選手たちにはとにかく決勝という大きな山だけを目指して登っていけと伝えていました。そうしたら、途中の山は全部クリアしていけるから。

恩師である宇津木妙子さん(右)と選手時代の宇津木麗華さん(左)。2000年のシドニーオリンピックにて銀メダルを獲得

井村 ああ、全然ブレてないですね。JOCの取材でも、麗華さんが「どんなに国内の試合で打率がいい選手でも、アメリカ選手から打てる人しか使わない」と言い切っているのを聞いて、これはすごく明快だなと思っていたんです。
私も麗華さんみたいに絶対に一番を狙うタイプなんですけど、日本人の中にはなかなかそういう決断ができる人はいないですよ。

宇津木 でも結構苦労もしました。「あのチームの打率ナンバー1の選手をなぜ起用しないのか」などいろいろ言われることも多くて、数字的根拠を提示して納得してもらったこともあります。
とにかく今回のオリンピックでは金メダルを獲ることが条件だったんです。団体スポーツの中でもメダルに一番近かったのが私たちのソフトボールで、ファンの皆さんをはじめ日本中が期待していたこの金メダルに、必死に応えていくのが我われプロとしての仕事だと。それを理解してもらうために、協会には何度も掛け合いました。

井村 ここが日本の駄目なところですよね。私は中国でもコーチを務めたので分かりますが、中国人はこの人に任せてもいいと感じたら、その後は一切口出ししません。その任せっぷりは立派ですよ。日本ではそういう周囲の声をける力がなければ、つぶされてしまいます。これは指導者だけでなく、世の中で芽を出そうとする人皆に共通することですが、こういう毀誉褒貶きよほうへんを超えられるほどに強くならないと駄目ですね。

女子ソフトボール日本代表監督

宇津木麗華

うつぎ・れいか

中国名・任彦麗(ニン・エンリ)。昭和38年中国北京生まれ。女子ソフトボール中国代表チームでキャプテンを務めるも、18歳から宇津木妙子氏と交流を続けてきたことから、63年25歳の時に来日し、日立高崎入団。平成6年日本に帰化、宇津木麗華に改名。8年アトランタ五輪代表チーム入りするが、帰化問題から出場を取り消される。12年シドニー五輪では主砲として活躍し、銀メダル獲得に貢献。14年から監督を兼任。20年の北京五輪で悲願の金メダルを獲得。24年、26年の世界選手権で連覇。令和3年の東京五輪で金メダル獲得。