2019年5月号
特集
枠を破る
  • 山口県地方史学会理事山本栄一郎

2つの枠を破った男の生涯

大村益次郎の歩んだ道

第2次長州征伐の危機から長州藩を救い、指揮官として1年で戊辰戦争を終結に導いた幕末の偉人、大村益次郎。村医者から一念発起して自らの運命を切り拓いてきた人生行路は、波瀾に満ちたものであった。軍事の天才として評価されてきた大村だが、それは彼の一面しか表していないと語るのが、大村益次郎研究の第一人者・山本栄一郎氏だ。永らく研究の進んでいなかった人物研究に新たな光を当てている山本氏に話を伺った(写真:靖國神社の境内に立つ高さ12メートルの大村益次郎の銅像)。

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大村益次郎に対する評価の変遷

敗戦を翌年に控えた昭和19年、1冊の伝記が発刊された。タイトルは『大村益次郎』。物資の乏しい時代にもかかわらず900ページを超える大冊たいさつになっているものの、残念ながらその内容は十分と言えるものではなく、事実とは異なる記述も多々散見される。

後に大村益次郎に関連する書籍が何冊か出版されているが、いずれも同伝記に基づいているためか、大村の実像に迫れていないというのが私の印象だ。この70余年、大村の研究は完全に止まっていたと言えよう。

昨年、山口市では「大村益次郎没後150年事業実行委員会」が設立され、記念事業の一環として私の大村研究の成果を記した小冊を刊行する運びとなった。足掛け10年にわたる研究から、新たに浮かび上がってきた大村の一面に光を当てたつもりである。その研究成果を本欄ほんらんで述べるに先立って、まずは大村に対する評価についてひと言触れておきたい。

「維新の三傑さんけつ」と言えば西郷隆盛、大久保利通としみち、木戸孝允たかよしとされている。これは明治新政府が維新の功労者に授けた恩賞「永世禄えいせいろく」を基準にしたものだろう。大名・公家を除いた一般藩士で、1,000石以上の恩賞を受けた人物は11名。その中にあって農民出身なのは大村益次郎ただ一人であったことは特筆に値する。西郷をはじめ他の10名は、全人口の5%程度だったといわれる特権階級、つまり武士出身だったのだ。

では、現在の評価はどうか。例えば地元山口県で幕末の人物といえば、吉田松陰と高杉晋作とが人気を二分しており、大村益次郎はまったくもって分が悪い。これは全国的にも同じことが言える。

大村益次郎が幕末維新に果たした役割は、軍事担当者としての側面が大きい。その主な功績は第二次長州征伐で軍事参謀として長州藩に勝利をもたらしたことに始まり、江戸における上野彰義隊しょうぎたい戦争をわずか1日で終わらせたこと、そして旧幕府勢力との戊辰ぼしん戦争を1年で終結させたことなど実に華々はなばなしいものだった。

歴史小説家の司馬遼太郎は大村益次郎を「維新の総仕上げ人」と評しており、今日に至るまで軍事の天才、ひいては「軍神」として扱われてきた。12メートルの高さから周囲を睥睨へいげいするようにして靖國やすくに神社の境内に立つ大村の銅像も、そうしたイメージを植えつけてきた一因ではないだろうか。

しかし、単に軍神として大村益次郎を見ているだけでは、その実像に迫ることはできない。なぜなら、大村は武士社会を終わらせるきっかけをつくった人物でもあるからだ。ここからは大村の足跡を辿たどりながら、その実像を明らかにしていきたいと思う。

山口県地方史学会理事

山本栄一郎

やまもと・えいいちろう

昭和37年山口県生まれ。神戸学院大学経済学部経済学科卒業後、地元企業に就職。山口歴史研究会会長、防府史談会理事などを歴任。著書に『幕末維新の仕事師「村田蔵六」大村益次郎』(大村益次郎没後150年事業実行委員会)など。