2016年9月号
特集
恩を知り
恩に報いる
  • ことほぎ代表白駒妃登美
歴史に学ぶ

感謝報恩に生きた
偉人の物語

歴史講座などを通じて日本の歴史や文化の素晴らしさを伝えようと活動を続ける「博多の歴女」こと白駒妃登美さん。本欄では知られざる偉人たちの物語を通じて、私たち日本人の根幹をなす感謝報恩の生き方に光をあてていただきました。

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北里柴三郎の歩んだ道

昨年(2015年)、北里大学特別栄誉教授の大村智氏がノーベル賞を受賞されると、その功績とともに、大学創設者である北里柴三郎もにわかに脚光を浴びることとなりました。医学者として素晴らしい実績を残した柴三郎ですが、実は他にも後世に生きる私たちに残してくれたものがあります。それは柴三郎の美しい生き方であって、これこそ私たち日本人が語り継いでいくべきものだと思うのです。

柴三郎が生きた幕末から明治にかけての時代は、日本の歴史上最大の危機だったと言えるのではないでしょうか。科学技術の力を武器に、西洋諸国がアジア、アフリカ各国を次々と植民地化していく中、日本の独立もまた危機に晒されていたのです。

当時の日本にとって、選択肢2つしかありませんでした。一つは西洋諸国の力の前に屈すること、そしてもう一つは自分たちで科学技術を身につけ、独立を守ることです。先人たちが選んだのは後者、つまり独立を守る道でした。

そして日本の独立を守るために、多くの留学生たちが世界へと飛び立っていきました。彼らの日記や手紙を読むと、単に自分の夢を追い求めようというのではなく、大きな使命感を持って海を渡っていったことが分かります。例えば後の連合艦隊参謀・秋山真之は、米国留学中に次の言葉を残したと伝えられています。

「一日自分の仕事、勉強を怠れば、一日国家の進歩が遅れる」

他の留学生にも多くの日記や手紙が残されていますが、使われている言葉こそ違えども、彼らの志はみな一様に高かったことが窺えます。高い精神性を土台に、日夜勉強に明け暮れて当時世界最高峰の技術を身につけようと励んだ留学生たち。その高い精神性と技術力とが両輪になったことで、明治維新とそれに続く近代化という、奇跡のような歴史を育むことができたのではないかと思うのです。

そして北里柴三郎もまた、そのような留学生の1人でした。33歳の柴三郎が、内務省衛生局からドイツのベルリン大学に留学したのは、明治18(1885)年のこと。近代細菌学の開祖と謳われるコッホに師事した柴三郎は、最初の1年余りは下宿先と研究所を結ぶ道しか知らなかったといわれるほど、研究に没頭しました。

やがて柴三郎の努力は大輪の花を咲かせます。世界中の名立たる細菌学の権威たちが挑むも、悉く失敗に終わっていた破傷風菌の純粋培養に、僅か4年で成功したのです。東洋の医学後進国からやってきた青年の快挙に、世界は度肝を抜かれたことでしょう。さらに翌年には破傷風菌に対する免疫抗体を発見し、血清療法を確立。これによって、柴三郎は第1回ノーベル生理学・医学賞の候補にノミネートされたのです。

残念ながらノーベル賞受賞は逃したものの、留学期間を終えた柴三郎には、欧米各国の大学や製薬会社などからヘッドハンティングの話が次々と持ち掛けられます。しかし、柴三郎はどんな破格の待遇条件にも目をくれることなく日本に帰国する道を選びました。日本の医学の発展のために、一身を賭して学ぼうとした志を貫徹した柴三郎ですが、その根底には留学期間延長の話を持ち掛けてくださった明治天皇へのご恩返し、という思いもあったと言われています。

ところが日本に帰った柴三郎を待っていたのは、厳しい現実でした。一説には母校の東大医学部との間に軋轢があったと言われていますが、そのせいで内務省衛生局に復職することすらできず、失職の憂き目に遭ったのです。

ことほぎ代表

白駒妃登美

しらこま・ひとみ

昭和39年埼玉県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、大手航空会社の国際線客室乗務員として7年半勤務。平成24年には日本の素晴らしい歴史や文化を国内外に発信する目的で株式会社ことほぎを設立。「博多の歴女」として、講演、社員研修、ラジオ・テレビ出演など、年間200回に及ぶ。著書に『子どもの心に光を灯す日本の偉人の物語』(致知出版社)など多数。