2021年11月号
特集
努力にまさる天才なし
インタビュー②
  • 翻訳家松岡和子

シェイクスピアと
共に歩み来て

松岡和子さんは、28年の歳月をかけてシェイクスピアの戯曲37作品を訳し、2021年5月『シェイクスピア全集』33巻を完結させた。若い頃、シェイクスピアの大きさに圧倒され遠ざかっていた松岡さんが、翻訳に取り掛かったのは54歳の時。訳を続ける中で味わった苦労やシェイクスピアの魅力についてお話しいただいた。

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振り返れば訳した作品が並んでいた

——『シェイクスピア全集』(ちくま文庫)33巻37作品をこのほど完結されました。28年にわたる努力の結実ですね。

ありがとうございます。忘れもしませんが、2020年12月18日、37本目の『終わりよければすべてよし』の最後の一行を訳し終えた時、本当にホッとして「ああ、これで大きな役目を果たせたな」という思いが込み上げてきました。
シェイクスピアの翻訳のお話を最初にいただいたのは1993年です。『間違いの喜劇』という作品でしたけど、まさかその後、自分が全作品を翻訳することになるなど思ってもみませんでした。私は長い間、シェイクスピアのあまりの大きさに圧倒され、ずっと逃げてばかりいましたから(笑)。

——全集を手掛けるきっかけがあったのですか。

演出家の蜷川にながわ幸雄ゆきおさんが、1998年からさいたま芸術劇場で全作品を上演することになって、「日本語でやる場合には、松岡訳を使うから」と言ってくださったんです。
それと時を同じくして筑摩書房からも、文庫のかたちで全集を出したいというお話をいただきました。54歳の時です。ただ、私の場合は出版はあくまでも上演に合わせてと考えていましたので、訳すのは蜷川さんがお決めになった上演作品順でした。稽古にも頻繁ひんぱんに足を運び、上演が続いている間は死ねないという思いでやってきたんですけど、蜷川さんが五本を残して先にってしまわれたのはとても残念です。
ですから、この28年間は、最初から遠いゴールが見えていたというよりも、蜷川さんに促されるようにして一作一作を訳していき、振り返ったら訳した作品がずらっと並んでいたという感覚なんです。

——劇を見ながら、よい訳を思いつかれることもあるのですか。

もちろん、あります。シェイクスピア自身が舞台のための台本として書いたものですから、私も「演出家や役者さんにとって、この台詞せりふが腹に落ちる言葉になっているだろうか」ということは最初からいつも考えてきました。「耳で聞いてすぐに分かる言葉じゃなきゃいけない」というのは蜷川さんに常に言われたことです。

——蜷川さんも松岡さんの訳を気に入られていたのでしょうね。

ご本人に聞いたことがないので分かりません(笑)。訳を頼まれる前から私は蜷川さんの舞台の劇評を書いていて、親しくはさせていただいていました。1994年、串田和美かずよしさん演出の『夏の夜の夢』を訳することになり、その訳を蜷川さんにお見せしたところ、気に入ってくださって、蜷川さん演出の第1作となる『ハムレット』の翻訳依頼をいただいたのだと思います。
ちゃんとしたものをお渡ししないと次の仕事が入ってこないのがフリーの厳しさなのですが、それでも蜷川さんからの依頼が途切れることがなかったのは幸せなことでしたね。ただ、いまは私を支えてくださった蜷川さんも、全集の表紙絵を描き続けてくださった安野あんの光雅みつまささんもこの世にはいらっしゃらない。全集完結を喜び合えないまま、どこか取り残されたような感覚でいます。

翻訳家

松岡和子

まつおか・かずこ

昭和17年旧満州生まれ。東京女子大学英文科卒業。東京大学大学院修士課程修了。東京医科歯科大学教養学部で英語を講じる傍ら翻訳、演劇評論を続ける。現在同大学名誉教授。2021年5月『シェイクスピア全集』全33巻(ちくま文庫)を完結。この他に『繪本シェイクスピア劇場』(講談社)『「もの」で読む入門シェイクスピア』(ちくま文庫)『深読みシェイクスピア』(新潮文庫)など著書多数。