2017年1月号
特集
青雲の志
対談
  • 日本レーシングマネージメント会長菅原義正
  • ゴディバ ジャパン社長ジェローム・シュシャン

果てなき
挑戦心を抱いて

弓道の神髄を経営に生かし、高級チョコレートメーカー・ゴディバジャパンの社長として、就任から5年間で売上高を2倍に伸ばしたジェローム・シュシャン氏。一方、世界一過酷なモータースポーツ競技といわれるダカール・ラリーで、世界最多連続出場33回、世界最多連続完走20回という、2つのギネス記録を持つ菅原義正氏。闘う世界は違えども、果てなき挑戦心を抱き、道を切り拓いてきたお2人の姿は共通している。33年前の運命的な出逢い、今日に至るまでの歩み、そこから摑んだ成功の条件とは――。

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ヒッチハイクでの運命的な出逢い

菅原 『致知』は人間学を学ぶ月刊誌だそうですが、いまの日本人は本当に人間学を勉強し直さないとダメだと思いますね。
ジェロームさんはフランス人でありながら、日本独自の武道である弓道に打ち込み、そこで学ばれたことを経営に生かし、ゴディバ ジャパンの社長として目覚ましく業績を向上させています。確か5年間で売り上げを……。

シュシャン 2010年に社長に就任し、5年間で2倍の売り上げ増を達成しました。

菅原 5年間で2倍増は簡単にできることではありませんが、ジェロームさんはそれを結果だけ求めるんじゃなくて、大事なのはプロセス、取り組む心だと。そこを正しく持っていれば自ずと結果がついてくるということで実現された。
まさに日本の哲学、人間学を実践されていますよ。

シュシャン 菅原さんとはもう長い付き合いですが、こういう真面目な雑誌で対談するのは初めてだから、ちょっと緊張します(笑)。
初めて出逢ったのは、何年前でしたっけ?

菅原 1983年だから、33年前です。僕が42歳。

シュシャン 私は22歳。あの時は友達と2人で東南アジアに旅行していたんですけども、本を読んで日本の禅に興味があったので、せっかくだから日本にも行こうと思い、急遽予定を変更して7月か8月に初めて日本を訪れたんです。
まずは永平寺に行こうということで、ホテルの人に場所を聞いて、段ボールに「福井」と書いてもらった。それを持って東名高速の入り口でヒッチハイクしていたところに、偶然通りかかって拾ってくれたのが菅原さんでした。

菅原 いま振り返っても、非常にドラマチックな出逢いですよね。
あの時は富士山の5合目でキャンプをするために、キャンピングカーを引っ張っていたんですよ。日本にはあまりヒッチハイクって文化はないし、御殿場までしか行かないけど、我われ日本人として何かお役に立つことがあればいいかなと思って乗せたんです。

シュシャン 当時、私はまだ日本語が全く話せなかったですけど、車の中でいろいろ会話しましたね。お互いに同じ言葉は使えなくても、菅原さんはすごく話しやすい人だなと思ったんです。不思議ですね。
しかも、車に乗せてくれただけじゃなくて、お昼にすき焼きをご馳走になって、温泉に入ることもできました。

菅原 初めて日本を訪れた海外の青年たちに、日本独特の文化を体感してもらいたいなと思ってね。箱根の仙石原にある行きつけの旅館に連れていったんです。
後日、帰国前にも当時私が住んでいた六本木の家を訪ねてきて、何泊かしてからフランスへ帰ったのでしたね。

シュシャン はい。いい人に巡り合えたなとつくづく思います。
私は御殿場で菅原さんと別れた後、再びヒッチハイクして永平寺まで行きました。私は泊まり込みで坐禅を組む修行をしたかったんですけど、前もって申し込みをしないとダメだと言われて追い返されてしまったんですね。
すごくがっかりして、仕方なくまたヒッチハイクしたんですけど、そこで乗せてくれたドライバーが何と天龍寺住職の笹川浩仙老師という方だったんです。実はこういう事情で……と話したら、よろしければ私のお寺に来てくださいと。それで天龍寺で5日間修行体験をさせてもらいました。さらに笹川老師のご紹介で、永平寺で坐禅を組むこともできたんです。

菅原 だからあなたは運が強いね。

シュシャン 運というか、強い意志があったと思うんですね。「これ絶対にやりたーい!」って(笑)。

菅原 そういう強烈な思いは気の波となって、国境や人種を超えて相手の心に当たるのでしょうね。

日本レーシングマネージメント会長

菅原義正

すがわら・よしまさ

昭和16年北海道生まれ。拓殖大学卒業。40年第1回モーターファン・コンバインドラリーに出場し、デビューを果たす。以後、国内のレースを中心に活躍する。44年日本レーシングマネージメント設立、社長に就任。58年パリ‐ダカール・ラリーに初出場し、平成20年世界最多連続出場(25回)がギネスに認定。その後も記録を更新し続け、28年に33回連続出場を達成した。世界最多連続完走20回のギネス記録も保持している。

ダカール・ラリーで2つのギネス記録を持つ

シュシャン 初めてお会いした時、菅原さんはたしかパリ‐ダカール・ラリー(以下パリダカ)出場1年目でしたね。

菅原 そうです。初めてチャレンジした年でした。
パリダカは1979年に初めて開催されていますので、僕は第5回大会の時から参戦していることになります。2009年からアルゼンチン・チリでの開催に移行し、名称も変わりましたが、パリダカは1月1日にパリをスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、サハラ砂漠などを走破して、2~3週間かけてセネガルの首都ダカールにゴールするレースです。
スタート時には世界中から約10万人の観衆が現地に集まり、300億円くらいの経済効果があると言われています。
走行距離は1万2,000キロ。経由地やコースは毎年変わりますが、集落や救護施設もない砂漠やサバンナ、岩石地帯、熱帯雨林などの厳しい大自然を舞台としていて、完走率は僅か20~30%程度。レースで死者が出ることもしょっちゅう。世界一過酷なモータースポーツ競技、完走者がすべて勝者と言われている所以はそこにあるんです。

シュシャン 菅原さんがパリダカの存在を知ったのはどういうきっかけで?

菅原 オートバイの雑誌に小さな記事が出ていたんですよ。いまみたいにテレビでの報道やインターネットはないですからね。その記事を見てすごく驚いたんです。
というのも、日本では富士1,000キロっていうレースが当時一番長かったんですけど、1周6キロのコースをひたすら回るわけですよ。ところが、パリダカはスケールが全然違う。これは面白そうだなと直感して、エントリーしたんです。

シュシャン 日本人では初めての出場ですか。

菅原 横田紀一郎さん、風間深志さんという冒険家がいましてね。彼らが1981年、1982年にそれぞれ走っているので、僕は3人目なんです。
41歳で始めて、75歳のいまもレースに挑み続けているわけですけど、僕がこれに人生懸けようと思ったのは、ある年のレースで9人亡くなったことがありましてね。もちろん負傷者もいっぱい出ました。その時に、この競技は本物だと感じたんです。
我われがやっているのはまさに生きるか死ぬかの真剣勝負なんですね。だから、毎回遺書を書いてレースに出ています。優勝や完走をしたからといって、高額な賞金がもらえるわけではありません。にもかかわらず、それだけ危険なレースに毎年1,000人を超す人たちがエントリーしている。何のためにやっているかといえば、名誉のためなんですね。

シュシャン ああ、名誉のため。

菅原 そういう中で、僕は第5回大会の時から毎年ずっと出場していて、2008年はテロで大会が中止になってしまったのですが、この年に連続出場記録25回でギネスに認定されました。その後も自分の記録を更新し続け、今年(2016年)75歳で33回連続出場を果たしました。
最初の3年間はリタイアが続きましたが、それから完走できるようになり、1989年から2009年までは、20回連続で完走しているんです。この記録もギネスに認定されていますが、狙って取れるものではありません。一所懸命やっていたら、結果がついてきたという感じですね。これまで33回出場したうち、28回完走することができています。

シュシャン ということは、完走率84%。驚異的な数字です。

ゴディバ ジャパン社長

ジェローム・シュシャン

Jereme Chouchan

1961年フランス生まれ。HEC Paris経営大学院卒業。1983年在学中に旅行で初来日したのを機に日本文化に興味を持ち、29歳で弓道を始める。フランス国立造幣局、ラコステ北アジアディレクター、LVMHグループ・ヘネシーのディレクター、リヤドロ ジャパン社長などを経て、2010年より現職。同年国際弓道連盟理事就任、2013年弓道錬士5段取得。著書に『ターゲット ゴディバはなぜ売上2倍を5年間で達成したのか?』(高橋書店)がある。