2023年6月号
特集
わが人生のうた
対談
  • 大阪大学名誉教授加地伸行
  • JFEホールディングス名誉顧問數土文夫

孔子の歩いた道
のこした言葉

2,000年以上の時を越えて読み継がれてきた東洋古典『論語』。孔子とその高弟たちの言行録には、人間いかに生くべきかという原理原則が凝縮されている。中国思想研究の第一人者である加地伸行氏と古典の教えを経営に生かしてこられた數土文夫氏に、「孔子の歩いた道と遺した言葉」について語り合っていただいた。人間通・孔子がその生涯を通して奏でた詩とはいかなるものか。孔子に学ぶ人間学、ここにあり——。

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「巧言令色鮮し仁」

數土 きょうは尊敬する加地先生と『論語』について語り合えることを楽しみにしていました。

加地 こちらこそよろしくお願いいたします。いつも『致知』の「巻頭の言葉」を読ませていただいていますが、數土さんは若い時から古典を活学されていることが伝わってきますよ。

數土 私が『論語』を読んだのは東洋古典の中では比較的遅いほうなんです。私の父は高等学校で漢文を教えていまして、家には本がたくさんあったんですけど、最初に読んだのは『明治大正文学全集』でした。それから『トルストイぐう集』や『モンテ・クリスト伯』、『三国志』や『戦国策』などを小中高時代に面白く読んでいました。
ところが、北大ほくだい(北海道大学)に入学し、北大の前身に当たる札幌農学校の卒業生であるいなぞうの『武士道』を読んだら、その根幹に『論語』の教えがあることに気づいたんです。そういう経緯で大学2年生の時に初めて『論語』を読んだのですが、大学生というのは誘惑がいっぱいあるんですよ。だけど、誘惑に1回負けたら大変なことになるということを『論語』に教えてもらいました。

加地 どんなことを学ばれたんですか?

數土 例えば、悪い誘いに乗って遊びに行ったとします。そのことを親きょうだいに言えるかどうか。もし言えないことなら、やってはいけないということを自分の不文律にしたんです。これは『論語』を読んで最初に得た気づきでした。
それから「こうげんれいしょくすくなじん」という言葉が2回も出てくる。これは誤植だと思って他の出版社の本を買ってみたら、やっぱり同じで「ああ、これは誤植じゃないんだ」と(笑)。

加地 確かにがく第一とよう第十七にまったく同じ言葉が出てきます。
この章句の一番大事なところは「鮮し仁」なんですよ。仁がないということではない。あることはある。しかし、ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は仁の程度が低い。だから、全くの否定ではないんですよ。

數土 人間の弱さを表した言葉ですよね。周りの人にお世辞を言わないとか、あるいは忠告の仕方には注意する。そういうことを私は心掛けてきました。

加地 この章句は何か前後の話があって、その上で言っているはずなんです。ところが、前後の話が切り落とされてしまって、結論的なところだけが残っているので、前後の事情が分からない。

數土 おっしゃる通りで、なんで誤植に違いないと思ったのかと言ったら、脈絡なしにポッと2回も出てくるからです。

加地 それは非常に自然な受け止め方だと思います。

數土 この章句はきっとこう自身の実体験から生まれたのでしょうね。孔子は14年間、ろう生活を送りました。自分の生涯の仕事、天命は政治を通して世の中を変えることだと。ところが、せいの国に登用されそうだったところを斉のさいしょうあんえいこばまれて、仕官できなくなってしまった。
このように、あちこちの国で君主に認められても、部下に「あれはダメです」と言われてほぞを噛んだ経験が何回もあるから、「巧言令色鮮し仁」は骨身にみた、君主に対する言葉だというのが私の解釈なんです。

大阪大学名誉教授

加地伸行

かじ・のぶゆき

昭和11年大阪府生まれ。京都大学文学部卒業。専門は中国哲学史。大阪大学名誉教授、立命館大学フェロー。平成20年第24回正論大賞受賞。著書多数。『論語』の関連書としては『論語全訳注増補版』『論語のこころ』(共に講談社学術文庫)『論語』『孔子』(共に角川ソフィア文庫)『論語入門 心の安らぎに』(幻冬舎)など。

絶海の孤島に携えたい本

加地 私の父も小学校の教員で、家には本がたくさんありました。子供の頃からよく本を読んでいまして、一番気に入っていた本は、菊池寛の小説『真珠夫人』です。
もっとも、中の話は何のことか分かりませんでしたが(笑)。
漢文を正式に習ったのは高等学校へ入ってからで、その時の漢文の先生と運命的な出逢いがあったんですよ。その方のお名前は福永光司先生です。

數土 福永先生といえば、中国思想史、特にろうそう思想・どうきょう研究の第一人者として知られた有名な方ですね。

加地 戦時中は徴兵に取られて、戦後私が在学した高等学校の教員をしながら、『そう』の翻訳を行っていました。後に大学で教鞭きょうべんられ、最終的には東大や京大の教授を歴任されましたが、その実力というのはすごいものでね。戦地から引き揚げてこられた方々は、食うや食わずの逆境を乗り越えられていますから、やっぱりいま時の先生とは違う。
私はその福永先生に漢文を習ったんですよ。もうとにかく授業が面白かった。ゲラゲラ笑うとかそんなものじゃなくて、何と言ったらいいかなぁ。

數土 き込まれたんですね。

加地 そうそう。歴史の中に吸い込まれるような感じでした。これはありがたいことやと思います。
語られる口調は淡々として、別に特徴はないんですけど、『』に出てくるような様々なエピソード、漢文にまつわる周辺の話を交えながら解説してくださるので、イキイキとした話なんです。それで私は福永先生の影響を受けて、大学では中国思想を専攻しました。
以来、60数年にわたり何らかの形でずっと『論語』にたずさわってきましたが、『論語』は人間をありのままに見通し、幸福とは何かという視点に基づいて道徳を論じている本だと感じます。親を大切にするとか夫婦は仲良くとか友人には真心を尽くすとか、決して難しいことは言っていませんが、そういう基本的な道徳を日常生活の中で実践できているか問われると、えりを正される思いがします。

數土 全く同感です。

加地 もし絶海の孤島に1冊だけ本を持って行くならば、私は躊躇ちゅうちょすることなく、『論語』を選びます。また、皆さんにもお薦めしたいと心から感じています。

JFEホールディングス名誉顧問

數土文夫

すど・ふみお

昭和16年富山県生まれ。39年北海道大学工学部卒業後、川崎製鉄入社。常務、副社長などを経て、平成13年社長に就任。15年経営統合後の鉄鋼事業会社JFEスチールの初代社長となる。17年JFEホールディングス社長に就任。経済同友会副代表幹事、日本放送協会経営委員会委員長、東京電力会長を歴任し、令和元年より現職。