2020年6月号
特集
鞠躬尽力
対談
  • (左)指揮者小林研一郎
  • (右)映画監督龍村 仁

我が情熱の火は
消えることなし

「炎のマエストロ」と呼ばれる世界的指揮者の小林研一郎氏と『地球交響曲 第九番』に挑む映画監督の龍村 仁氏は、共に1940年4月生まれの80歳。分野こそ異なるものの、いまなお新しい何かを創造しようと情熱を燃やし続けている。お二人はいま何を求め、どのような思いで目の前の仕事に取り組んでいるのか。映画制作を通して再び出会ったお二人が語り合う人生と仕事の要訣。

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同じ年同じ月に生まれて

小林 龍村たつむら監督と僕は共に1940年4月生まれで、とても不思議なご縁を感じているんです。監督が現在制作されている映画『地球交響曲ガイアシンフォニー 第九番』にも出演させていただいていて、いまから完成が楽しみです。

龍村 2019年12月25日にサントリーホールで開かれた小林先生の第九演奏会、あれは本当に感動的でした。映画では小林先生がこの演奏会を仕上げられるプロセスを追っているのですが、おかげさまでいい作品になりそうです。
僕はこの第九番を『地球交響曲』の集大成と位置づけています。この映画は1922年に第一番を制作し、これまでに八作を世に送り出してきたわけですが、九番に流れるテーマは「いのちのシンフォニー」です。その中の一つとして、聴力を失いながらも作曲家としてひたむきに歩き続けたベートーヴェンの人生、苦悩の末に生まれたであろう「第九」(交響曲第九番)に込めた思いを、ベートーヴェンをこよなく敬愛される小林先生の姿を通して描きたいと思っているんです。

小林 ありがたいですねぇ。本当に光栄なことだと思っています。

龍村 僕が最初に小林先生のことを知ったのは、70年代に『地球は音楽だ』というテレビのドキュメンタリー番組の撮影でハンガリーのブダペストに行った時でした。ある楽器専門店のショーウインドーに畳何畳分もある指揮者の写真が掲げられていて、それが小林先生だったんです。

小林 おそらく1974年、第1回ブダペスト国際指揮者コンクールで優勝した直後だと思います。その頃は道を歩いているとよくサインを求められたり、ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団など欧州の一流のオーケストラからオファーがあったり、僕にとっては絶頂期でした。ブダペストの人たちも「自分たちが選んだ日本の指揮者だ」という誇らしい目で僕のことを見てくださっていたものです。
龍村監督はそんな僕を覚えていてくださり、『地球交響曲 第五番』(2004年制作)にも出させてくださいましたね。『地球交響曲』はこの映画の大ファンである家内の勧めで観るようになったのですが、素晴らしいと感動して観ていただけに、「出てもらえませんか」と声を掛けていただいた時は、本当に驚いたことを覚えています。

指揮者

小林研一郎

こばやし・けんいちろう

昭和15年福島県生まれ。東京藝術大学作曲科、指揮科の両科を卒業。49年第1回ブダペスト国際指揮者コンクール第1位、特別賞を受賞。その後、多くの音楽祭に出演するほか、ヨーロッパの一流オーケストラを多数指揮。平成14年の「プラハの春音楽祭」では、東洋人として初めてチェコ・フィルを指揮。ハンガリー国立フィル桂冠指揮者、名古屋フィル桂冠指揮者、日本フィル音楽監督、東京藝術大学教授、東京音楽大学客員教授などを歴任。

70年間追い続けるベートーヴェンの後ろ姿

龍村 小林先生はこれまで実に500回にわたって「第九」の指揮をしてこられたそうですが、そこまで「第九」を振っている指揮者は他にいないのではありませんか。

小林 おそらく世界一でしょうね。やはり、それだけ「第九」に対する僕の思い入れが深いんです。
僕は10歳の時、ラジオから流れてくる「第九」を聴いて大変な衝撃を受けました。この時の鮮烈さ、喜びは到底忘れ難いもので、その翌日からは大変でした。早速母親に「五線紙をつくってください」とお願いして、母がガリ版印刷してくれた手書きの五線紙で何も分からないのに作曲の練習を始めたんです。人間って不思議ですね。そうやって真夜中まで一途いちずにやっていると、1年くらいで本当に曲が書けるようになる。
その頃から家族に内緒で夜中に家を抜け出し、小学校の講堂に忍び込んで、ピアノを弾くようになりました。忍び込む時は文房具の下敷きを持っていくんです。子供が入れる小さな窓を探しておいて、下敷きを使ってそっと鍵を開けるんですね(笑)。いまでは考えられないことですが、そうやって穏やかに時間が流れるロマンチックな時代でした。
辺りは真っ暗ですから、楽譜は見えません。即興でベートーヴェンの曲をピアノで弾いてみて「いや、こんな音じゃない」と。そうやって弾けた、弾けないを何度も繰り返しました。その時以来、僕は70年間一貫してベートーヴェンを追い続けているわけです。

龍村 最初はすべて独学でやってこられたのでしたね。

小林 はい。いまでも「第九」の楽譜を見るといろいろな発見があり、「ベートーヴェンってこんなことまで書いていたんだよ」と、まるで宝物を見つけたみたいに興奮しながら家内に話すことがあります(笑)。我が家ではこれをダヴィンチ・コードならぬベートーヴェン・コードと呼んでいるのですが、ベートーヴェンの曲は行間に埋め込まれたいろいろな仕掛けがあるんですね。その行間を読み解く旅は果てしなく遠く、大海に浮かぶ小舟の中で、僕はいまもなお、もがき続けています。

龍村 きょうは小林先生にぜひ見ていただきたいと思うものがあって持ってきました。僕がテレビ局に入局して初任給で買った『ベートーヴェン九大交響曲集』(LPレコード)です。

小林 ああ、これは珍しい。50年以上前のものですね。

龍村 ええ。「これがあれば一生聴けるから」と思って買いました。小林先生と同じように、実は僕も少年の頃から、ずっとベートーヴェンにあこがれていましてね。
僕の祖父・龍村平蔵へいぞうは京都で有名な織物店・龍村美術織物の創業者です。姉の影響か、僕も幼い頃から音楽に興味があって、家のピアノを勝手に弾いていました。ところが、祖母が厳しい人で「男の子がピアノなんかやるもんじゃない」と。何度も押し入れに閉じ込められるのを可哀想かわいそうに思ったのか、姉が高校の音楽室に連れて行ってくれて、そこで『月光』などを弾いたものです。そんな僕を学校の女の子たちがいつものぞきに来ていたな(笑)。

小林 僕も夜中の講堂でよく『月光』を弾いていました。最初の音が出せた時には涙があふれて、2番目の音が出るとその涙がポロポロとこぼれ落ちます。一小節弾けるようになったら、水たまりができるのではないかと思うほどでした。僕はそういう特殊な感性の人間だったんですね。

映画監督

龍村 仁

たつむら・じん

昭和15年兵庫県生まれ。38年京都大学文学部美学科卒業。同年NHK入局。49年映画『キャロル』を制作、監督したのをきっかけにNHKを退職、独立。以後、ドキュメンタリー、ドラマ、コマーシャル等の制作に邁進。平成4年より『地球交響曲』の公開を始め、現在『地球交響曲 第九番』を制作中。著書に『地球(ガイア)のささやき』(角川ソフィア文庫)などがある。