2019年12月号
特集
精進する
対談
  • (左)評論家守屋 淳
  • (右)作家童門冬二

渋沢栄一の生き方が
教えるもの

生涯に481の企業経営、約600の社会事業に携わり、近代日本の礎をつくった渋沢栄一。若き日に倒幕の志士だった渋沢はやがて幕臣となり、明治政府の役人を経て実業家へと転身する。様々な変節を経たように思える渋沢だが、そこには決してぶれることのない志が貫かれていたという。作家の童門冬二氏と評論家の守屋 淳氏に、その人生や信条について語り合っていただいた。

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無名の存在だった渋沢栄一

童門 僕、10月19日が誕生日なんです。昭和2年の生まれでもうすぐ92歳。

守屋 そうですか。それは喜ばしい。91年を生きた渋沢栄一の年齢を超えられるわけですね。渋沢が亡くなった昭和6年、既に先生はお生まれでしたから、同じ時代の空気を吸っていらっしゃったことになる。

童門 言われてみたら確かにそうですね(笑)。
守屋先生のお父さんのひろし先生に僕は随分お世話になってきたんですが、あつし先生にもいろいろなセミナーなんかでご一緒する機会があります。その度にとても学ぶことが多くて、以前から渋沢栄一の生き方や考え方について一度じっくりとお話を伺ってみたいと思っていたんです。

守屋 尊敬する童門先生からそう言われると、ただただ恐縮する他ありませんが、確か童門先生と最初にお会いしたのは、渋沢栄一記念財団が主催する「論語と算盤そろばんセミナー」に先生にご登壇いただき、渋沢栄一の話をしていただいた時ではないかと記憶しています。7、8年前になりますか。
先生のお話は大変人気がありまして、もっと聞きたいという方がたくさんいらっしゃいましたので、その年だけは同じセミナーを春と秋の2回やったんです。

童門 ああ、そうでしたね。

守屋 そもそも童門先生が渋沢栄一に関心を抱かれたのは、いつ頃だったのですか。

童門 この話がどこまで普遍性があるのか分かりませんけれども、維新後、それまで江戸町奉行所がやっていた仕事を東京市が引き継いだんですよ。その中に8代将軍吉宗がつくった小石川養生所ようじょうしょという老人の福祉施設があって、税金だけでは運営できないというので、町々が運営費の一部を寄付することになったんです。ところが大変な額が集まりましてね。時の東京府(当時「市」は「府」の下部機関)知事の大久保忠寛ただひろ一翁いちおう)は、静岡の徳川慶喜よしのぶの下で財政を担当した渋沢栄一を呼んで、「この大金をどう使うか、委員会をつくって結論を出してほしい」と依頼するわけです。
渋沢はこの大金で養育院以外にも、整備が遅れていた神田上水の拡張工事を行ったり、外国人の居留地があった築地の道路の整備を進めたりしました。面白いのは、その時に渋沢が大久保に「自分を養育院の院長にしてほしい。それも死ぬまでやらせてほしい」と頼んでいる点です。

渋沢は500とも600ともいわれる会社を立ち上げ、立派な肩書がしょっちゅう変わるような人物です。その渋沢が養育院院長という肩書だけは、91歳で亡くなるまで残している。養育院院長という肩書はいまでいうと東京都の局長クラスです。僕も都庁勤務時代には局長の端くれでしたから、渋沢は大先輩であり、仕事の上での大恩人です。そのご縁で伝記やなんかを読み始めて、今日に至るまで尊敬しているわけです。
そういえば、かつて大田区にあった多摩川園という遊園地も渋沢がつくったものですね。渋沢は年寄りだけでなく孤児の救済にも尽力していて、養育院の隣には孤児たちの施設をつくっています。

守屋 私が渋沢栄一に関心を持ったのは、昔『論語』の本を書いた時でした。その中で渋沢の『論語と算盤』について触れたところ、アメリカから帰ってこられた玄孫やしゃごの渋澤健さんから「『論語と算盤』の読書会をやりたいんだけども、漢文が読めないので、教えてほしい」と連絡を受けたんです。
読書会をやりながら驚いたのが、その頃、渋沢栄一の名はまったく世間に知られていないことでした。塙保己一はなわほきいち荻野吟子おぎのぎんこと並ぶ埼玉の三偉人の一人として地元の方はご存じなんですが、例えば大企業の幹部研修に行って渋沢栄一について話しても「初めて知りました」という声ばかりなんです。知っていたとしても「銀行をつくった人ですか」と、その程度の認識なんですね。渋沢栄一はもっと知られるべき人物であり、その思想は現代でも役に立つと思いましたので、私なりに研究をし、本にもまとめるようになりました。

作家

童門冬二

どうもん・ふゆじ

昭和2年東京生まれ。東京都庁にて広報室長、企画調整局長を歴任後、54年に退職。本格的な作家活動に入る。第43回芥川賞候補。平成11年勲三等瑞宝章を受章。著書は代表作の『小説上杉鷹山』(学陽書房)をはじめ、『人生を励ます太宰治の言葉』『楠木正成』『水戸光圀』(いずれも致知出版社)『歴史の生かし方』『歴史に学ぶ「人たらし」の極意』(共に青春出版社)など多数。

高崎城襲撃計画はなぜ中止されたのか

童門 渋沢栄一の人生についてザッと振り返っておくと、埼玉県深谷ふかや血洗島ちあらいじまの豪農の子として生まれます。幼い時分から生糸や藍玉あいだまの製造販売を手掛ける家業に携わっていました。栄一もお祖父さんと一緒に群馬などに藍の買い出しに行っていたんですね。
栄一はティーンエイジャーの頃から既に目利きで、「これは肥料が足りない」とか「これはお天道様の当て方が足りない」とか鋭い指摘をするものだから、専門家にも恐れられている存在でした。

話を飛ばせば、その頃、ペリーが日本にやって来て幕府は結果的に開国に踏み切るわけですが、フランスやイギリスとの貿易で茶や生糸が飛ぶように売れた。すると、やはり悪徳商人がいて、その二つの品物だけじゃなく米から何から生活に必要な品物の価格を皆引き上げちゃうわけ。それで栄一は怒るんですね。なぜこうなったのか、悪政が原因だ。開国したのは誰だ、幕府だというので、アンチ幕府の過激な攘夷じょうい論者になっていくんです。
従兄弟いとこの渋沢成一郎などと組んで尊王攘夷運動をやって、高崎城乗っ取り計画を立てたのもその頃です。一方、そういう激動の時代を生きながらも、『論語』や古典を熱心に学ぶようになっていく。

守屋 ええ。『論語』は最初、父親が教えていたのですが、栄一が非常に優秀だったために栄一の従兄弟・尾高惇忠あつただの元で学ばせるようになります。同じ従兄弟の渋沢喜作もこの尾高惇忠から学問を教わっていますね。
後に栄一が一橋家に仕えた時、あまりに優秀で「こんなに優秀な人間は誰が育てたのか」と師匠の尾高惇忠までもが一橋家に招かれることになります。この尾高惇忠は真面目に四書五経を教えるのではなく、好きな本を読みなさい、まずは読書が好きになるのが重要だという教え方をするんですね。それで栄一は非常に幅広く古典や歴史の本を読むようになる。

渋沢栄一が何かをなす上で多くの情報を集め、反対する人たちの意見までちゃんと聞いた上で判断することを知ったのは、そういう読書体験によるところが大きいと思います。それが象徴的に現れたのが、先ほど童門先生が触れられた高崎城襲撃計画です。
高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜に出て外国人を斬るというのがそもそもの計画だったのですが、栄一は決行前夜に従兄弟の尾高長七郎(惇忠の弟)と会います。長七郎は日本の情勢に詳しく「そんなことをやっても百姓一揆いっきに間違えられるだけだ」「幕府の軍の力は強いからすぐに殺されてしまうぞ」と反対して、2人の間で大変な激論になります。
そして、ここが渋沢栄一のすごいところだと思いますが、何100両も使って武器を購入し、多くの仲間を集めたにもかかわらず、長七郎の意見を聞き入れて栄一は計画を中止するんですね。それはやはり幅広い情報を集めて総合的に判断し、あちらに理があるとすれば、反対意見を取り入れるべきだという考え方を『論語』などの古典を通してきちんと学んでいたからだと思います。「ここまで来たからにはやるしかない」といった、そういう考え方はしない。

評論家

守屋 淳

もりや・あつし

昭和40年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。大手書店勤務を経て独立。現在は『孫子』『論語』を中心とする中国古典をテーマとした執筆や企業研修、講演活動などを行う。著書に『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)『現代語訳 渋沢栄一自伝』(平凡社新書)など多数。