2024年9月号
特集
貫くものを
一人称
  • 肥後の偉人顕彰会会長永田 誠
明治第一の功臣

元田永孚が
示した日本のこころ

明治、それは急激に近代化が進展した時代。一面には、舶来の思想がなだれ込んだ時代とも言えよう。そんな歴史の転換点で明治天皇の侍講を20年にわたり務め、同郷の井上 こわしと「教育勅語」の起草に尽力。稀代の名君を育て、日本を貫くものを世に知らしめんとしたのがもと なが ざねだ。近年風化しつつあるその偉業を、肥後の偉人顕彰会・永田 誠会長にひもといていただいた。

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日本の近代化に先鞭をつけた肥後の偉人

熊本の偉人を知っていますか?

同じ熊本在住の方に尋ねると、加藤きよまさや夏目そうせきといった名前が返ってきます。確かに熊本所縁ゆかりの偉人ですが、残念ながら熊本出身とは言えません。熊本で生まれ育った偉人はたくさんいるのに、地元でも知られていないのです。

例えば細菌学者の北里柴三郎は比較的有名な熊本人で、新紙幣の顔としていま注目を浴びています。しかし熊本には、近代日本の国家建設に素晴らしい貢献をした、もっと語るべき偉人がいることを、声を大にして訴えたいと思います。その1人が、もとながざねです。

普段は元田先生とお呼びしていますが、それは私が心から尊敬しているだけでなく、平成30年に設立した「肥後ひごの偉人顕彰会」で特に力を入れて顕彰しているからです。元田は明治天皇のこうを約20年務め、陛下から父親のように慕われた人物です。晩年、同じく私が心服する熊本人・井上こわし先生と共に「教育ちょく」(教育ニかんスル勅語)の起草に尽力された方でもあります。明治政府が拙速に進める西欧化を危惧し、日本人の美風や美徳、精神を守るために意見し続け、〝日本人の道徳の根本〟を明らかにした、明治を語る上で欠かせない存在です。

ところが近年、残念ながらその功績は人々の記憶から消え去りつつあります。一例として、熊本城にほど近い熊本市桜町の百貨店の横には、「元田永孚先生誕生地碑」と刻まれた立派な記念碑が立っていました。約10年前、その生家跡地一帯が再開発の対象となり、碑が撤去されてしまったのです。

県内の企業に勤める私は、碑の所在を問い合わせ、有識者や議員の先生方の助力を得て何とか廃棄を阻止しましたが、移設交渉は難航。きょくせつあって、新しくできた大型商業施設の地下通路の片隅に碑文を写したプレートが埋め込まれる結果となり、本物の碑は所有者である地元企業の車庫でひっそりと眠っています。

偉人の史跡は観光に資するものばかりではなく、自治体の支援は期待できません。それでも歴史的偉業の風化を食い止めたい。その一心で令和2年より毎年1月、元田先生のご命日前後に慰霊顕彰祭「とう祭」(東野は雅号)を斎行してきました。まず地元で1人でも多くの方に知ってもらうべく、当会は若手を中心とする県議、市議、町議の約10名を含む40名の有志会員で奮闘しているのです。

肥後の偉人顕彰会会長

永田 誠

ながた・まこと

昭和49年熊本県生まれ。平成7年熊本工業専門学校電気科卒業。一般企業に勤める傍ら、30年「肥後の偉人顕彰会」を設立、副会長に就任。令和3年会長。著書に『井上毅先生』(肥後の偉人顕彰会編/ネクストパブリッシング出版)がある。