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天下統一を成し遂げ、戦乱の世を平和に導いた豊臣秀吉。しかし晩年には15万を超える大軍を率いて無謀ともいえる朝鮮出兵を行うなど、その人物の評価はいまだ毀誉褒貶相半ばである。長年日本史を研究してきた東北大学名誉教授の平川新氏に、秀吉の実像、日本を西洋の植民地化の脅威から守った知られざる外交戦略について紐解いていただく。
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東北大学名誉教授
平川 新
ひらかわ・あらた
昭和25年福岡県生まれ。法政大学文学部卒業。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。宮城学院女子大学助教授、東北大学教授などを経て、平成17年より東北大学東北アジア研究センター長。24年より東北大学災害科学国際研究所所長。26年より宮城学院女子大学学長。同年より東北大学名誉教授。令和4年より宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)館長。著書に『戦国日本と大航海時代』(中公新書/第31回和辻哲郎文化賞受賞)などがある。
豊臣秀吉
とよとみ・ひでよし
1536~1598年。織田信長に仕え、戦功を立て羽柴秀吉と名乗る。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一。この間、関白、太政大臣となり、豊臣を賜姓。また、検地・刀狩りなどを行い、兵農分離を促進した。2度にわたる朝鮮出兵を行ったが、戦局半ばに62歳で病没。