2016年9月号
特集
恩を知り
恩に報いる
対談
  • 真宗大谷派淨信寺副住職西端春枝
  • はぐるまの家代表坂岡嘉代子

恩を送る生き方

浄土真宗の僧として、また篤志面接委員として刑に服する人々に生き方を説き続ける真宗大谷派淨信寺副住職の西端春枝さん。その西端さんを心の師と仰ぐ坂岡嘉代子さんは、問題を抱える子供たちを支援する活動を40年間続けてきた。様々な人々の恩を感じ、それに報いる生き方を貫かれたお二人に、恩に支えられたこれまでの人生を語り合っていただいた。

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両手が不自由な大塚全教尼が口に筆をくわえて書いた「大孝は終身父母を養う」の前で(淨信寺)

不思議な縁に導かれて

西端 きょうはお暑い中、福井から大阪までわざわざご足労いただきまして……。

坂岡 西端先生とは2、3か月に一度、先生が副住職を務められるこちらの淨信寺さんでの勉強会に参加させていただいていますけど、こうして対談ができるなど考えてもみないことで、本当にもったいないご縁だと思っています。

西端 私も95歳になって、だんだん要領が悪うなってしもうて、体のほうもガタガタなのに人が来られた時だけ格好つけようとする。私の悪い癖です(笑)。勘弁してくださいね。

坂岡 とんでもありません。先生からはこれからもずっとご指導を仰ぎたいと思っています。
西端先生に最初に声を掛けていただいた4年前のことは、いまでも忘れられません。西端先生のお姿は、先生も懇意にされていた一燈園の石川洋先生の集いがあるたびに遠くから拝見していました。いつも凜とした雰囲気で、深い仏教のお話に聴き入っていたんです。ある時、石川先生のお食事の介助をしようとしていると、西端先生が私を手招きされて、傍に寄りましたらニッコリ笑って「あなたが坂岡さんね。なんぼになった?」と。「66歳です」と答えましたら、胸をボーンと叩いて「まだ赤子だね」とおっしゃいました。
足腰も弱って私なりに老いを感じていましたので、「赤子だね」と言われて大変驚きました。「あんたはまだまだだよ」と言われたのかな、とそう思って、石川先生亡き後は、西端先生を心の師と仰がせていただいているんです。

西端 坂岡さんの話は以前からよく石川先生にお聞きしていました。坂岡さんを娘のように可愛がって、とにかくべた褒めされていた。「あなたたち2人、いつか会いなさい」と言われていたのになかなかその機会がなくて、4年前、あのようなかたちで声を掛けさせていただいたんです。
そういえば、随分前になりますが、岡山にあるハンセン病元患者さんの施設・愛生園で、坂岡さんの「和太鼓はぐるま」の演奏を聴かせていただいたことがありました。若い子供さんの演奏を聴きながら、あれほど泣いた記憶はあまりないくらい私は号泣したんです。
何も物を言わない太鼓にここまで深く感動したのは、演奏する少年たちの背景を多少聞いていたからでしょう。坂岡さんと最初にお会いしたのは、この時だったかもしれません。

坂岡 石川先生もまた、愛生園に深く関わっておられたことを考えますと、私たち2人のご縁は石川先生のお導きと申し上げてもいいでしょうね。

真宗大谷派淨信寺副住職

西端春枝

にしばた・はるえ

大正11年大阪府生まれ。昭和16年大谷女子専門学校卒業後、小学校教師に。20年退職。21年西端行雄氏と結婚、夫婦で行商を始める。25年ハトヤを開業し、38年ニチイ創立。49年同社株式上場を機に退職。淨信寺副住職として今日に至る。大谷学園理事、全国女性同友会名誉会長、近畿女性同友会会長、「雑巾を縫う会」会長などを務める。著書に『熱き人生を求めるあなたへ』(ぱるす出版)など。

この子らの親になりなさい

坂岡 西端先生は95歳とはとても思えないほどお元気ですが、淨信寺さんの副住職のほか、刑に服した女性たちのための篤志面接委員をいまも続けられていますね。この篤志面接委員というのは、絶望の淵にある人たちを相手にした、なかなか容易ならぬお仕事だとお聞きしています。

西端 そうですね。刑務所にいらっしゃる人は人の子の親でもあるし、親から見たら子供でもある。仮にその人が40歳であれば、40年前に戻れるものであればどんなにいいだろうか、と思うことがあります。生まれた時、愛されて生まれてきた子供さんと、男に捨てられ親に逃げられて生まれた子供さんとでは出発点が最初から違っているんです。それはどうにもならない宿業、前世の因縁のようなものでしょうね。
親から愛されなかった人はどうしても、犯罪に走りやすい。それを何とか覆してともに喜びの世界に入れてあげたいと思うけれども、私にはそういう力はないし、40年間怨みきっている意識を変えるには、よほどこちらが捨て身にならなくてはいけないと気を引き締めています。

坂岡 そういう方々には、何を言って差し上げるのですか。

西端 最近、テーマにしているのは「煩悩具足」ということです。具足というのは、備えるという意味ですね。五月人形なら身につけた兜や鎧を取るのは簡単だけれども、煩悩は人間の血肉の中にまるで繊維のように入っているから、これを千切るわけにはいきません。そういう煩悩を自分も持っているし、相手も持っている。ということは皆一緒で、人を裁く資格のある人は誰もいないわけです。
だけど、罪を犯した人にしたら、虐められ愛を奪われて捨てられたという怨みが原点にしっかりあるから、「お互いに罪を持っている」と言っても、なかなか通じないんです。私自身、篤志面接委員としての無力を感じることもありますが、そういう時はお母さんの思い出を心ゆくまで聞いてあげることにしています。
「いっぺん〝お母さん〟言うて呼ぶか」と故郷の方角に向かって、憎みきっている母親に「お母さーん」と大きな声で呼んでもらいます。その時にその子らが流す涙は本当の涙ですね。彼女たちと接して不憫とは思いますけれども、それでもまだ、親というものを知っているだけ幸せなほうです。中には生まれてすぐ親に捨てられた子もおりますからね。
最後には「幸せになってね。幸せになる権利が人間にはあるんだから」と話して別れるのですが、「先生、体に気をつけてね。長生きしてね」と言われると、本当にいい仕事をさせていただいていると胸がいっぱいになります。手を振り別れるのです。私の胸の高鳴りを聞いてほしい、幸せの一刻です。みな、みな仏様のお導きによって、でございます。
そういう意味では、坂岡さんは多くの子のお母さんになっておられるから、本当に大したものです。お聞きしたところでは、40年の間に400名以上の子を引き取って育ててこられたそうですね。

坂岡 ええ。教護院(児童自立支援施設)を出た子ばかりでなく、重度の小児麻痺の子やら知的障害の子、聴覚障害の子など様々な子を預かってきました。無我夢中で歩んできて、気がついたら40年が経っていた、という感じです。
ありがたいことに、そこから生まれた「和太鼓はぐるま」は昭和63年にプロデビューして以来、いまでは刑務所やハンセン病患者さんの施設、難民キャンプなど国内外で公演活動を続けられるまでになってきました。
私がこのような活動を始めた原点の一つについてお話をさせていただくと、娘と親しくしていた教護院の子供たちを母が自宅に招くようになったのがきっかけでした。母がたくさんお寿司をつくって「遊びにおいで」と言って待っていたら、髪を真っ赤にした子、爪を染めた子が改造バイクで何人もやってくるんですね。私はビックリして拒否したのですが、母は「いいから、いいから」と。それで夜には布団を敷いて泊まらせてあげたりもしていました。
そういう生活を続けるうちに母から「あんた、この子らの親になりなさい」と言われ、私も情が移ってきたというのか、次第に子供たちと向き合おうという気持ちになったんですね。私を「おっかあ」と呼ぶ子供たちが増えていって、自分が味わったことのない大きな喜びを味わえるようになりました。生まれ落ちたところから悲しみを背負った子たちと接するようになったのはこの頃からです。
ただ、娘は「なぜそこまで人のためにしてあげないといけないのか」と反発し、長い間葛藤が続くようになるわけですけど……。

西端 坂岡さんとゆっくりお話しする機会はなかなかありませんでしたが、お聞きしていると、お母さんがあなたの先導をされたんやな、いまの活動のご縁をつくられたのがお母さんやったんやな、と改めて教えられました。
仏教には「同席対面五百生」という言葉があります。同じ船で向かい合わせに座るだけでも500回の生まれ変わりの結果だというんです。坂岡さんとお母さん、育てられた多くのお子さんたちとの出会いは、どれほど深い前世の因縁だったか分かりませんね。

坂岡 そうかもしれません。

はぐるまの家代表

坂岡嘉代子

さかおか・かよこ

昭和21年福井県生まれ。16歳で脳脊髄膜炎発病以来、青春を闘病生活に生きる。その間、県手話通訳を経て聾啞者、非行少年のための太鼓グループを結成。63年「和太鼓はぐるま」としてプロデビューさせる。平成2年親子の駆け込み寺「はぐるまの家」開設。裁判所や児童相談所の要請で非行、不登校、家庭内暴力を受けた子供たちなどを引き取っている。21年社会貢献支援財団より社会貢献者表彰。27年藍綬褒章受章。