2023年11月号
特集
幸福の条件
対談
  • ローマ教皇庁枢機卿前田万葉
  • 文学博士鈴木秀子

人生を幸福に
生きる知恵

「ヨブよ、腰に帯して立ち上がれ」

2018年、ローマ・カトリック教会において教皇に次ぐ枢機卿という聖職者に就任した前田万葉氏。そのルーツは長崎・五島列島の潜伏キリシタンである。苛酷な迫害に耐え抜いた曽祖父、原爆被爆者である母親。篤い信仰と核兵器のない平和への願いを受け継ぎながらいまも広く活動を続ける前田氏と、本誌連載でお馴染みの文学博士で聖心会シスターでもある鈴木秀子氏に、人生を幸福に生きるための心得を語り合っていただいた。

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激しい迫害を耐え抜いて

鈴木 聖心会シスターの鈴木です。きょうはお目にかかれて光栄に思います。

前田 私もシスターが書かれたものを拝読しておりまして、お話ができることを楽しみにしていました。

鈴木 私は長崎の五島に巡礼に行ったことがあるのですが、小さな部屋にたくさんのカトリック信者が詰め込まれて殉教じゅんきょうするといった、悲しい情景がまざまざと思い浮かぶような場がいまも残されていました。お聞きするところでは、その中に前田すうきょう様のご先祖様が何人もいらっしゃったそうですね。

前田 はい。私は潜伏キリシタンの末裔まつえいで、曽祖父の妹3人が命を落としています。

鈴木 枢機卿様は長い年月、ご先祖様が蓄積された信仰を一身に担われて、いまローマ教皇様に次ぐお立場として人々の幸せや世界平和のために尽くされていることに深い感慨を覚えるんです。

前田 ありがとうございます。五島列島の下から2番目にひさじまという島があるのですが、そこに「牢屋ろうやさこ」と呼ばれる殉教の地があります。明治時代の初期、潜伏キリシタンだった先祖9人が迫害を受け、その中の1人が当時21歳の青年だった曽祖父・紙村年松かみむらとしまつでした。
このキリシタン牢は「六坪牢」という名の通り畳12畳の広さです。それを半分に仕切って男性と女性に分けられて、そこに信徒200人余りが閉じ込められたんです。立つのもつらい状態で、幼い子どもは間に挟まれて宙ぶらりんだったそうです。力尽きた人はずり落ちて、死体はそのまま放置されてうじがわくという本当にひどい状態だったと伝えられています。
時々、牢から出された信徒たちは口から水をどんどん入れられたり、両足を縛られて船で海の中を引きずり回されたり、あるいは丸太を4つ切りにしてとがった部分にひざを立てさせられて、上から重たい石を載せられたりと、ありとあらゆる残虐な責め苦を受けました。食べ物といったらわずかにサツマイモが朝晩1個ずつ。年松はそんな苛酷かこくな「六坪牢」で8か月間耐え抜いた後に釈放されるんです。

五島列島・久賀島にある牢屋の窄殉教記念教会

鈴木 こういうことが本当にあり得たのかと思うほどの悲しい歴史ですね。

前田 年松は牢から出ることができたものの、家に帰ると家財道具から農機具、調理器具まで一切合切全部取られていて、隠していた味噌まで取り上げられていました。生活ができないので山に行って木の根などを掘り出してこうしのいでいたようですが、やがて自らいかだのようなものをつくって沖に出て、潮の流れで辿たどりついた上五島・なかどおりじまちゅうという場所で生活を始めるんです。
私自身はこの中通島の出身なのですが、久賀島にはやはり何か縁があるのでしょうね。学校の教員をしていた父は久賀島で勤務していたことがあり、私が26歳で神父になって最初の任地もやはり久賀島でした。「牢屋の窄」のことは親から聞いてよく知っていましたので、着任して間もなく牢死者42人の墓碑を建てたいと思い立って、島民の皆さんの協力で建立しました。いまも年に1回くらいは巡礼に行き、皆でお祈りをしたり、先祖のお話をさせていただいたりしています。

鈴木 島の人たちが苦しい殉教に耐え抜くことができたのは、お互いが一つの信仰で結ばれていたからだと思います。人間が苦しみを乗り越えるには、互いの支えと志を一つにすることがどんなに大切なのかということを、殉教の史跡を辿りながら私も身にみて感じました。

ローマ教皇庁枢機卿

前田万葉

まえだ・まんよう

昭和24年長崎県生まれ。50年、福岡の神学校サン・スルピス大神学院卒業。カトリック中央協議会事務局長、カトリック広島教区長などを経て平成26年から大阪大司教区大司教。30年6月日本人で歴代6人目のローマ・カトリック教会枢機卿に就任。著書に『烏賊墨の一筋垂れて冬の弥撒』『前田万葉句集Ⅰ・Ⅱ』(共にかまくら春秋社)。

信仰を持つことの喜びと葛藤

鈴木 枢機卿様はそういうご先祖のお話を、幼い頃から聞きながらお育ちになったのですか。

前田 私は11人きょうだいの2番目(長男)なのですが、子どもの頃にはテレビはまだありませんでしたから、両親の話を聞くのが楽しみでしたし、特に先祖の話にはとても興味がありました。両親共に潜伏キリシタンの家系で、話を聞きながら「ご先祖様はなぜこんなに酷い迫害を受けなくてはいけなかったのだろうか」ということを強く感じていましたね。
私も年齢を重ねる中で迫害する側にもそうせざるを得なかった理由があったことが分かり、迫害を受ける幼子を不憫ふびんに思い養子として育てた島民がいたことも知りました。お互いにとって悲しい過去がそこにはあったわけです。そういう中で先祖が一途に守り抜いた信仰、それだけ価値のある信仰を簡単に捨てることはできない、大切に守り継いでいこうという思いが、私の中でいつしか信念に変わっていきました。その思いは神父になって一層強固なものとなったと思っています。

鈴木 まさに枢機卿様の原点ですね。いまの時代は一人っ子の世帯が多いことを思うと、大勢の家族の中で交わりながら、ご先祖のお話を通して人間の苦しみや、それを乗り越える力についてお聞きになられたことは大変な恵みでもありましたね。

前田 そういう環境に生まれ育ったことには本当に感謝しています。ただ子どもの頃は、先祖の生き方を尊敬しつつも、信仰生活に抵抗を感じていたことも確かです。それこそ雨の日も風の日も、毎日早朝に起きてミサに行かなくてはいけない。「本当に信仰に意味があるのか」「神様っているのだろうか。いなかったらこんなことに意味はない」とそんな疑問を親に率直にぶつけたこともありました。
しかし、あつい信徒だった両親が聞き入れてくれるはずもなく、食事をする時や教会の前を通る時などは「父と子と聖霊せいれいによって」と必ず唱えるように厳しくしつけられました。また、そのことによって恐怖が消えていくという体験も子どもながらにしていました。

鈴木 ご両親はどのような方でしたか。

前田 父は小学校の教員でしたが、帰宅すると月明かりで山仕事をしたり畑仕事をしたり、時には海に行って魚を釣ったりと、本当にいつ寝ているのだろうと思うくらい働き者でした。当時の教員は給料が安く、11人の子どもたちを育てるのは大変だったのだと、いまでは分かります。お酒が好きであまりいい印象ばかりではなかった父ですが、50代の若さで亡くなった後、そのありがたさをしみじみと思い知りました。
イエス様は「人の子(イエスご自身のこと)は仕えられるためではなく仕えるために来た」とおっしゃっていますよね。最後のばんさんの時には、先生でありながら弟子たちの足を洗ってあげ、「あなたがたも同じように仕え合い、私があなたがたを愛したようにお互いに愛し合いなさい」と語られました。
ある意味、父の人生もそうでした。父が命を縮めるほど働いたのは、私たち家族を生かすためでした。「子が親に仕える」のが一般的ですが、父親の生き方を通して「親が子に仕えるとはこういうことなのか」と、そう教えられたんです。

鈴木 お父様の献身的な生き方が伝わってくるお話ですね。

前田 母もまた、父親が学校に行くと、子どもたちの世話から畑仕事まで一日中働き詰めでした。母は長崎で被爆しているんですね。そのために原爆病院に入院したり、手術をしたり、1週間くらい自宅で寝込んだりということがよくありました。そういう時、母を後追いしないよう弟や妹たちの面倒を見るのが私の役目でした。「短気は損気ぞ」が口癖の優しい人で、病弱だったにもかかわらず、88歳の誕生日の目前まで生きて寿命をまっとうしました。
このように長男として両親の苦労を目の当たりにしてきたことは私にとって大きな財産となっています。

文学博士

鈴木秀子

すずき・ひでこ

東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。聖心女子大学教授を経て、現在国際文学療法学会会長、聖心会会員。日本にエニアグラムを紹介。著書に『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』『幸せになるキーワード』(共に致知出版社)。近刊に『悲しまないで、そして生きて』(グッドブックス)『心がラクになる新約聖書の教え』(宝島社)。他著書多数。