2016年12月号
特集
人を育てる
対談
  • 東北大学加齢医学研究所所長川島隆太
  • 明治大学文学部教授齋藤孝

素読のすすめ

日本人が本を読まなくなったといわれて久しい。川島隆太氏は脳科学者の立場から読書離れとスマホ中毒の悪影響に警鐘を鳴らし、素読の必要性を訴えてきた。齊藤孝氏もまた数多くの素読の実践をベースに、その意義を伝え続けている。素読は私たちの脳にどのように作用し、どのような効果を生むのだろうか。お二人の対談から見えてきたのは素読で人を育てた先人の優れた知恵と、反対にスマホやSNSの驚くべき弊害だった。

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ゲームよりも読み書き計算

齋藤 川島先生、お久しぶりです。

川島 こちらこそ。お会いできるのを楽しみにしていました。
今回の対談は素読がテーマですが、齋藤先生が書かれた『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになって随分経ちますね。

齋藤 15年前になります。この本が生まれたきっかけは、子供がまだ幼い頃、いい漢文や漢詩を素読させたいと思ったことでした。適当なテキストがなくて、自分で本をつくることにしたのですが、ありがたいことに多くの方に読んでいただくことができました。
おそらく、いい名文を声に出して読みたいという隠れた需要があったのでしょうね。特に暗誦文化を大事にしてきた世代の方々が、直感的に「これはぜひ次の世代に伝えていきたい」と思ってくださったと思うんです。
川島先生が開発された脳トレが一大ブームになったのは、その少し後のことでしたね。

川島 ええ。ちょうど世の中に急速にインターネットが普及し始めた頃で、「このままネットに依存していたら、脳がおかしくなってしまうのではないか」と危機感を覚えた人たちが積極的に脳トレに取り組み始められたんです。ところが、いまはインターネットやSNSが当たり前の時代になって、人々の多くがネットに溺れていることにすら気づかず、危機感がすっかり薄れてしまっています。
詳しいことは後ほど述べたいと思いますが、これは実は非常に憂うべきことで、脳科学者として警鐘を鳴らし続けているんです。

齋藤 川島先生が推奨される素読(音読)や計算を見直すこともその対策の1つなのではないかと思いますが、素読と脳科学との接点はどのようにして生まれたのですか。

川島 素読の大切さに気づいたのは、本当に偶然の出来事からでした。僕が大学院生時代、脳の働きを調べるにはポジトロンCTという大掛かりな装置を使うしかなくて、それには多額のお金が必要でした。研究室にそれだけの余裕はないし、ここは産学連携で民間企業の力を借りるのがいいだろうというので、ゲームをしている時の脳の状態について調べ、ゲーム会社と提携できないかと画策することになったんです。
比較対象として、何かつまらないことをしている時の脳活動も調べてみようと、簡単な計算問題を解いたり文章を読んだりしている状態も測りました。「ゲームを楽しんでいる時の脳はよく働き、嫌々勉強する時の脳は働かない」という仮説を立てて実験に臨んだのですが、驚いたことに、結果は予想とは正反対だったんです。

齋藤 単純計算をしたり文章を読んだりしている時のほうが、脳はよく働いていたわけですね。

川島 ええ。意欲がなくても脳がよく働く理由が分からず、この計画は頓挫して、データは5年ほどお蔵入りになりました。
それからしばらくして、ある雑誌社の方が脳のことで取材にお見えになりました。ひととおり取材が終わって「何か読者受けする面白い話はありませんか」と聞かれたので、封印していたデータを思い出しましてね。ゲームをするより読み書き計算がいいということを、分かりやすく「ファミコンをするより公文がいい」とポロッと言ったのが、そのまま活字になってしまったんです。
そうしたら公文さんが突然僕を訪ねてこられて(笑)、そこから公文さんとの共同研究が始まるわけですね。

東北大学加齢医学研究所所長

川島隆太

かわしま・りゅうた

昭和34年千葉県生まれ。東北大学医学部卒業。同大学院医学系研究科修了(医学博士)。同大学加齢医学研究所所長。専門は脳機能イメージング学。著書に『脳を鍛える大人の音読ドリル』『脳を鍛える大人の計算ドリル』(ともにくもん出版)『さらば脳ブーム』(新潮新書)『川島隆太教授の脳力を鍛える150日パズル』(宝島社)『やってはいけない脳の習慣』(青春新書)など多数。

集団での素読で一体感が増す理由

齋藤 一般の学習理論でいえば、意欲が学習効果を高めるわけですが、その後、そのことは理論的に解明できたのですか。

川島 それが、いまだに解明できてはいません。通常の学習の研究であれば、やはり意欲のあるほうが脳がよく働くんです。同じ課題でも、興味を持って取り組むと、脳活動は断然活発になる。嫌々やっている場合とは明らかな差が確認できるんです。ですから、文章を読んだり単純計算をしたりして脳が働くのは例外則だと僕たちは捉えています。
これは僕自身の仮説なのですが、人間の脳の発達の過程で数や文字を使うようになったのは、種族の生き残りという点でも大変革命的な出来事だったわけですね。ということは、計算や文字を読む刺激によって脳を発達させる何らかの遺伝子が発現している、とも考えられるわけです。

齋藤 なるほど。では、本を黙読するのと、声を出して素読するのとでは脳の働きに違いがあるのでしょうか。

川島 これは当然違いますし、データでも裏づけられています。黙読は文字を捉えて視覚で覚え、そこに書かれている意味を理解します。一方、それを声に出すのは、理解した文章の情報を音に変換する、口を動かす、息を出す、自分の声を耳で聞くといった二重、三重の機能が働くことになるので、それだけ脳活動は活発になるわけです。
これは記憶のメカニズムとも大いに関係しています。記憶のしやすさにはいくつかのコツがあって、専門的に申し上げれば、たくさんのモダリティー、つまり感覚や情報を使うことが大切だとされています。読書の時に目で追うだけではなく声に出す、手で書くというように視覚、聴覚、運動情報を多く使ったほうが記憶に残りやすいことが実証されているんです。だから、同じものを繰り返して読む場合には、素読のように声に出したほうがずっと記憶に残りやすいことは確かですね。

齋藤 江戸時代の寺子屋では、先生のリズミカルな先導に合わせて子供たちが古典を復唱する方法を取り入れたわけですが、先生のリズムが体をとおして子供たちに伝わり、意味を呑み込めるようになることがあると思います。私もその教育効果を感じることがあるのですが、脳科学のお立場からどうなのでしょうか。

川島 実はいま、最先端の研究でまさにそのことに取り組んでいるところなんです。人間の前頭葉の中心、ちょうど眉間の上あたりに背内側前頭前野という高度なコミュニケーションを司る部分があって、お互いの気持ちが通じ合っている時には、その脳の揺らぎが同期する(脳活動の波長のタイミングが合う)ことが、今年(2016年)になって初めて分かったんです。

齋藤 つまり、心が通じ合えば、それまで一人ひとりバラバラだった脳の活動が1つになってくるということですね。

川島 そのとおりです。そのメカニズムが分かって学校の授業で測ってみたところ、いい授業ほど先生と生徒の脳が同期しやすいことが明らかになりました。
さらに、同期を強めるには、お互いの動作を合わせることが効果的であることも分かりました。外的な動きでリズムを合わせると、脳の同期のリズムも合ってきて、それがコミュニケーションをよくして学習効果を高めることにも繋がるんです。

齋藤 私は長年、身体を基礎にした教育方法を研究してきました。授業に復唱方式や素読を組み入れたりすると一体感が増すことを実感してはいましたが、それがなぜなのかがずっと疑問でした。
そうですか、脳の同期と深く関係していたわけですね。川島先生のお話に、とても驚き、また勇気づけられました。
ということは、『論語』などの素読をベースにした江戸時代の寺子屋の教育法は脳の同期を促し、一体感を育む効果的なものだったということになりますね。

川島 間違いなくそうです。

齋藤 いまのお話でもう一つ印象的だったのは、コミュニケーションを司る脳の同期を促す眉間の上の部分が、昔から「第三の目」といわれる箇所とピタッと一致しているということです。ここを心の目として大切にしてきた先人の知恵に改めて頭が下がりました。

明治大学文学部教授

齋藤孝

さいとう・たかし

昭和35年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て、現在明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション技法。著書に『子どもと声に出して読みたい「実語教」』『親子で読もう「実語教」』『子どもと声に出して読みたい「童子教」』『日本人の闘い方~日本最古の兵書「闘戦経」に学ぶ勝ち戦の原理原則~』など多数。新刊に『子どもの人間力を高める「三字経」』(いずれも致知出版社)。