2020年2月号
特集
心に残る言葉
インタビュー③
  • 草木染め作家坪倉優介

嫌なことの周りには、
素敵なことが
いっぱい転がっている

草木染め作家の坪倉優介氏は18歳の時の交通事故で記憶のほとんどを失った。喜怒哀楽の感覚さえなくしてしまった坪倉氏は、長い年月をかけて言葉や感情を取り戻し、現在は大阪市内に工房を構え、創作活動の傍ら着物や染め物の魅力を伝え続けている。これまでの半生を振り返りながら、自身の支えとなった言葉についてお話しいただいた。

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咄嗟のよき判断のおかげでいまの僕がいる

——大阪市浪速なにわ区に「ゆうすけ工房」を構えられて何年になりますか。

2006年の設立ですから2020年で15年目になります。僕はものづくりが大好きなので、一か月のうち約3週間はこの小さな工房で染めの仕事をしていて、残りの1週間は全国各地の着物店などで展示会をしています。つい最近も熊本や広島に行ってきたばかりなんです。
僕がいつも思っているのは、着物から遠ざかっている現代の人たちに新たな角度、新たな視点で興味を持っていただきたいということです。僕の人生や仕事はテレビや新聞などいろいろなメディアで紹介されていますから、それをご覧になった方から展示会のオファーをいただくこともあります。きっかけは様々だとしても、これまで着物にまったく縁のなかった人たちに少しでもその魅力に触れていただけるとしたら何よりの喜びです。

——坪倉さんは1989年、18歳の時に交通事故に遭って、すべての記憶を失ってしまわれたと聞いています。事故のことも覚えていらっしゃらないのですね。

はい。事故に遭うまでの自分のことは、いまでもほとんど分かりません。
後から聞いたのですが、大学に通学中、乗っていたスクーターと大型トレーラーが衝突して脳内出血をしてしまったようです。救急隊員の方の判断なのか、近くの病院ではなく、脳の専門医がいる大阪府立病院まで高速道路を使って運んでいただいたのですが、この判断が僕の人生における一つのターニングポイントだったように思います。
僕は意識を失った状態で、そのまま集中治療室に入れられました。レントゲンを撮ると脳が真っ黒になるくらい内出血を起こしていて、頭蓋骨ずがいこつを切って血を抜くというリスクを伴う治療法もあったそうなんです。でも父親が「この子は必ず自力で回復するはずだから、そのままの形で様子を見させてほしい」と。この父の判断も、僕がいまこうして仕事ができる理由の一つでしょうね。

——どのように回復していかれたのですか。

予断を許さない危険な状態が続く中、両親は毎日見舞いにやってきては、何の反応も示さない僕に話し掛けたり、手を握ったり精いっぱいの愛情を注いでくれました。そして、これも運命なのでしょうか、握られた手を、弱い力ではあったんですが、僕が握り返したようですね。
「先生、来てください。いま手が動いたんです」という両親の声で先生が駆けつけてくれましたが、その時に反応はありませんでした。しかし、本当に指が動いたのであればこの子の脳は生きているかもしれないという判断で、もう少し様子を見るようになったんです。

——その判断も結果的によかったわけですね。

はい。もっとも僕自身は誰が何を話していたか、そこでどういうことが行われていたかは一切知りません。これは赤ちゃんが生まれた時、お母さんに最初に何を言われたか、何を見たのかを全く覚えていないのと同じなのだと思います。
10日後、奇跡的に意識を取り戻した僕は救急病棟から一般病棟に移されました。ただし命を取り留めた代償としてすべての記憶を失ってしまいました。誰が父親であり母親なのか、家族や友人の顔すら分からなくなっていたんです。
これは退院前後のことだと思いますが、動く四角い箱(自動車)の窓から外を眺めていると、ずっと自分についてくる物体がある。後から考えると、それは電線でした。当たり前のようにある自動車も電線も机も電灯も僕には見たことがないものばかりで、戸惑いながら部屋の中にただただたたずんでいるだけの時間が何日も続きました。

草木染め作家

坪倉優介

つぼくら・ゆうすけ

昭和45年大阪府生まれ。大阪芸術大学在学中に交通事故に遭い、一命は取り留めたもののそれまでの記憶のほとんどを失う。同大学専攻科を卒業後、染織作家・奥田祐斎氏に弟子入り。独立後、平成18年「ゆうすけ工房」を開設。著書に『記憶喪失になったぼくが見た世界』(朝日新聞出版)。