2021年4月号
特集
稲盛和夫に学ぶ人間学
対談
  • (左)ファミリーイナダ会長兼社長稲田二千武
  • (右)日本経営ホールディングス名誉会長小池由久

稲盛塾長に教わった経営哲学

稲盛和夫氏の哲学に学び、それを経営や人生に生かす有志の集まりである盛和塾。国内外で2万人近い会員を擁してきたこの経営者グループを立ち上げた立役者の1人が稲田二千武氏である。一方、盛和塾大阪支部の代表世話人を務めた小池由久氏は、2019年の盛和塾解散後も「大和」という有志の会に参画し稲盛哲学の学びを続けている。塾長である稲盛氏の教えを実践し、逆境を乗り越えてきたお2人の足跡を通して、稲盛哲学の神髄が見えてくる(写真:鳥取県にあるファミリーイナダ大山工場にて)。

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稲盛和夫氏の強烈なインパクト

稲田 きょうは私たちファミリーイナダが運営する鳥取の大山だいせん工場にまで足をお運びいただき、恐縮しています。

小池 いえ。敬愛する稲盛和夫・盛和せいわ塾塾長についてお話ができるというので楽しみにまいりました。何と言っても稲田さんは、大阪で盛和塾の基盤をつくられた大先輩ですからね。

稲田 大阪で盛和塾ができたのが1989年ですから、もう30年以上になりますか。私が入塾したのはそれより6年前の83年で43歳の時でした。当時はまだ盛友塾と呼ばれていて、30、40人ほどの塾生が京都で小さな勉強会を開いていたんです。そこから大阪支部が誕生して盛和塾と改称。塾生は全国、世界へと広がり、ついに2万人近くになりました。それにしても振り返ると本当にアッと言う間でした。

小池 私が大阪支部に入塾したのは2004年、50歳の時です。だから、稲田さんより15年後輩になりますね。その頃の大阪支部の塾生は80人ほどだったと記憶していますが、稲盛哲学を広めて塾生を1,000人にしようと、皆さん大変燃えていらっしゃいましてね。特に大先輩の稲田さんや矢﨑勝彦さん(フェリシモ名誉会長)は「三百諸侯(300名塾生)、五百羅漢らかん(500名塾生)、七福神(729名塾生)、千成瓢箪せんなりびょうたん(1,000名塾生)」の絵を描かれ、私が命じられたのが最前線で塾生を獲得する攻撃隊長だったんです(笑)。

稲田 小池さんのお名前は入塾される前からよく存じ上げていました。医療に特化した会計事務所として関西ナンバーワンの実績を誇る日本経営というすごい会社があると京都監査法人の先生からよく聞いていました。それを知っていたからこそ最初から大きな役割をお願いしたわけです。

小池 我が社も同じ京都監査法人に監査をお願いしていて、入塾したのもそこからのご縁でしたね。
きょうはまたとない機会ですし、稲田さんがどういういきさつで入塾されたのか。そのことをぜひお話しいただけたらと思っています。

稲田 私は友人の紹介で京都の盛友塾の例会に初めて参加したのですが、そこで受けたインパクトは強烈なものでした。特にビジネスの中に哲学(フィロソフィ)がしっかりと落とし込まれていた塾長のお話には衝撃を受けました。
稲盛和夫という名経営者の勉強会と聞いて、経営者だったら誰だって成功するための戦略を学びたいと思うはずです。私もそれを期待していたのですが、そうではなく人間として、経営者としていかにあるべきか。ここが一番のベースになっている。
塾長は私よりも9つ年上で、当時から自信に満ちあふれたイメージでしたね。しかし、「どうしたらお金がもうけられるのか」とか「自分は偉いんだぞ」という雰囲気はまったく出されない。ただ一人の人間としてのすごみのようなものが強く伝わってきました。

小池 その感覚は私もよく分かります。

稲田 私にはそれまで正しい経営をしてきたという自負があったんです。他人に後ろ指を指されてまで出世しようとは思わないし、必要以上に金儲けをしたいとも思わない。しかし、稲盛塾長のお話は、そういうレベルを大きく超えたものでした。お話の中で私が最も心に残った「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉も、ご自身があらゆることに対して動機が善であるのかを徹底して考え、それを貫かれているからこそ説得力があり私たちの胸を打つことが分かったんです。これは衝撃でしたね。
私は鳥取の米子よなごの商業高校を出て大阪で就職をし、22歳でマッサージチェアの会社を創業しました。「ファミリーチェア」のヒットで急成長したのですが、工場の火災や労働争議、石油ショックなどに相次いで見舞われ、倒産寸前のところまで追い込まれた経験があります。いろいろな辛酸しんさんめてきたからか、塾長の言葉がビッと胸に響くわけですよ。まさに運命の出会いとでもいうのか。

小池 やはり運命だと感じられましたか。

稲田 感じました。それからは、何か分からないけれども、心がワクワクして例会に行きたくて仕方がなくなったんです。それが35年間、いまも続いています。

小池 稲田さんはほぼこれまで皆勤ですよね。鳥取から例会に出席するためだけに大阪に来て、最後まで残られる。この積み重ねはすごいといつも感心しています。

日本経営ホールディングス名誉会長

小池由久

こいけ・よしひさ

昭和29年岐阜県生まれ。高校卒業後、47年会計事務所(現・日本経営)に入社。平成8年社長に就任。19年会長を経て、27年名誉会長に就任。調剤薬局チェーン・サエラ社長、社会福祉法人ウエル清光会理事長も兼任。

35年間、一貫して変わらぬ姿勢

小池 稲田さんのお話のように、稲盛塾長は本当に腰が低く謙虚な方で、塾生たちの話にも真摯しんしに耳を傾けてくださいます。私にとって塾長は厳しくも包容力のある父親のような存在なんです。
私も盛和塾での学びを通して経営を成長させていただいたという思いを抱いていますが、もう1つ強く思うのは、稲盛哲学を学び実践されてきた多くの先輩方にこれまで支えられ導いていただいたおかげで、いまの自分があるということです。塾長は我われから見たら雲の上の神様のような存在で、私たちのことをソウルメイトと表現してくださるわけですが、そういうソウルメイトによって、いろいろなことに気づかせていただいたなと思うと、感謝の思いを禁じ得ませんね。

特に心に残っていますのは、イボキン(兵庫県)社長の高橋克実さんのお話です。高橋さんはお祖父様の代から廃品回収業をされていました。当時、社員のプライドは低く、自分はクズ屋の従業員だという認識があり、社員から「自分の娘が会社の前を通った時は恥ずかしかった」と言われ、「これではいけない」と。塾生である高橋さんは、そこで「事業の目的、意義を明確にする」という塾長の教えに基づいて「資源の少ない日本では重要で高度な技術を要する産業」と事業の定義を変えられるんですね。
このように廃品回収というイメージを大きく転換し、仕事に対する誇りや使命感を社員さんに伝えていかれた高橋さんの姿には大きな刺激を受けました。

稲田 塾生の一人ひとりに苦労を乗り越えていったいろいろなドラマがありますよね。それだけ塾長の感化力が大きいということだと思います。
稲盛塾長の魅力を言葉で表現するのはなかなか難しい部分があるのですが、やはり普通の人とは違うところがあるように思います。
例えば、私は塾長とは35年のお付き合いがあり、例会や稲盛財団の会合でお会いする機会も多いのですが、とても親しくさせていただいているという思いと、自分は多くの塾生の1人にすぎないという思いが共存しているんです。
塾長は付き合いが長い塾生も、きょう会った人も人間対人間として同じように大切にされますから、自分が親しいと思ってれ馴れしく甘えるようなことは絶対にできません。いい意味での緊張感がそこにあるわけです。

別の見方をすると、塾長は鬼のようなとても厳しい一面と、お釈迦しゃか様のような慈悲に満ちた一面をお持ちです。その両者がマッチングして状況に応じて表に出てくる。愛情、利他りたの心を根本に置いて時には冷酷とも思える厳しい判断をされることもありますしね。
強調したいのは、その姿勢は私がお会いしてから全くぶれることがないんです。いままでいろいろな人に会ってきましたけど、こういう人はいませんでした。

小池 稲田さんは京セラの監査役までされていて、塾長の信頼がとても厚い方だと思いますが、そういう稲田さんでもなかなかとらえられない深さをお持ちだということですね。

稲田 私は小池さんより先輩ですし、その分親しくさせていただいているかもしれないけれども、塾長からしたら全く見方は同じなんです。「私は稲盛和夫をやっています。あなたはコーヒーパックをやっています」という言い方をよくされますけど、人それぞれ、自分の役割をやっているだけ、という感覚をお持ちなのでしょうね。
実際、塾長ご自身が社内であろうと社外であろうと人間対人間という接し方をされていますからね。私はなかなかそこまでできませんけど、塾長のような人間でありたい、少しでも近づきたいと思って学び続けてきたんです。

小池 そういえば、ある塾長例会の開始前に塾長が大福を召し上がっていたことがありました。「大福もち、お好きですか」と私がお聞きすると「宴会の時に皆が挨拶あいさつや話をしに来るので、なかなか食事ができんのや」と笑っておっしゃっていました。些細ささいなことですが、こういうところにも塾生に対する気づかいが伝わってきますね。
立命館大学稲盛経営哲学研究センターの青山敦センター長が、利他という精神は忘己利他もうこりた、つまり自分をなくして誰かのために生きてこそ本物であると述べられていますが、その通りの生き方をされていることを考えると塾長は何か特別の使命を持って生まれられたのかなという思いにもなります。

ファミリーイナダ会長兼社長

稲田二千武

いなだ・にちむ

昭和15年鳥取県生まれ。34年米子商業高校卒業、大阪の鉄工所に就職。37年中央物産創業、社長に就任。平成10年上海に発美利健康器械、13年アメリカにFAMILY INADA INCをそれぞれ設立。17年米子国際ファミリープラザ開業。19年シャトー・おだか開業。22年大山レークホテルの事業を継承し、運営を開始。