2025年1月号
特集
万事修養
対談
  • 日本体育大学レスリング部コーチ藤波俊一
  • パリ2024オリンピックレスリング女子53kg級金メダリスト藤波朱理

万事は勝利の
ためにある

2024年盛夏、遠くパリの都で一組の日本人親子が世界を刮目させた。レスリング女子の藤波朱理選手が初出場にして破竹の勢いで金メダルを獲得。中学時代から途切れない公式戦連勝記録を137に伸ばした。そのコーチであり、2021年に教職を辞して地元三重から上京、娘の夢に人生を懸けてきた父・藤波俊一氏と喜びを分かち合った。勝利へのあくなき執念で結ばれた2人の強さの源を探る。

この記事は約23分でお読みいただけます

弱冠20歳、無敗の裏に油断なし

──この夏のパリ五輪をテレビで観戦し、他を寄せつけない圧倒的な闘いぶりに感嘆しました。初出場での金メダル獲得、おめでとうございます。

藤波朱理(以下、朱理) ありがとうございます。優勝の瞬間は、間違いなくいままでの人生で一番幸せな瞬間でした。日の丸が揚がり、君が代が流れ……この景色をこの先忘れることはないだろうな、って直感しました。
この数年間、パリで優勝すること、その時に目に映る景色をずっとイメージして闘ってきたんです。それが、本当に目の前に現れた! という感覚でしたね。
今回は4試合あって、どれも世界で勝ってきた実績のある選手が相手でした。特に決勝でぶつかった世界ランキング1位、エクアドルのジェペスグスマン選手は一番意識していた選手です。2023年の世界選手権で勝ったことはありましたけど、もう一度徹底的に研究して、対策しました。決勝でその成果が出てよかったです。

藤波俊一(以下、俊一)前回は初め両脚タックルを受けて5ポイント取られてから逆転しましたけど、今回は脚を触らせることもなく10対0で圧勝してくれました。
私は朱理がレスリングを始めてからずっと成長を見てきました。パリでの優勝はずっと目指してきた目標ですから、金を獲ってくれて、親としても、コーチとしても嬉しかったですね。

朱理 自分一人の力で闘ったという感覚は全然なくて、父をはじめ皆で闘って、勝ち取ったメダルだと思っています。

俊一 私は初戦が気になっていたんです。この大会の前、朱理はで世界大会を二つ欠場していて、ブランクがありました。減量もしますので、初戦でどんな闘いをするかで仕上がりが分かるわけです。
相手は2022年の世界選手権のチャンピオンでした。ここを6対0で勝ってくれたので「調子いいな。大丈夫だ」と。次も大差で勝って、その時点で金はいけるな、と内心は確証を得ていました。

朱理 「オリンピックには魔物がいる」とよく言われますが、自分自身の試合では、特に感じませんでした。
でも過去の先輩たちの闘いを見た時、実力通りにいかない世界なのかな、とは思いました。実際、観客席をはじめ、大会の盛り上がりはこれまでの経験の中で一番でした。実力だけでは勝てない、運も非常に大事になるのがオリンピックだと思います。それでも勝てるよう、運を引き寄せるくらいの準備を積み重ねたつもりです。

俊一 これまでアジア大会や世界選手権を闘ってきて、「魔物」がいるとは感じたことはありません。そもそも、勝負は何が起こるか分からんものです。朱理は普段から油断がないので、私は余計な心配はしませんでした。

朱理 オリンピックが終わって1か月くらい、レスリングをしない時期があったんです。好きな時間に好きなものを食べられる、きつい追い込みもない。大会前はそれが楽しみでした(笑)。
でも、実際そうしてみると、何か違うんですよね。あぁ、これは〝幸せ〟じゃないなって思いました。私は、きつくても目標があって、それに向かって努力することが楽しいし、幸せなんだと思います。休んだ1か月でそれに気がつけたことはすごくよかったです。

日本体育大学レスリング部コーチ

藤波俊一

ふじなみ・としかず

昭和39年三重県生まれ。62年日本体育大学卒業後は三重県立いなべ総合学園高校に赴任し、レスリング部設立。ソウルオリンピック日本代表候補選手。平成7年ジュニア選手のための「いなべクラブ」(現いなべレスリングアカデミー)を開設し、世界チャンピオンはじめ数々の選手を育成。令和3年母校日体大レスリング部のコーチとなる。

レスリング不毛の県立高校での挑戦

朱理 いまはもう、2028年のロサンゼルスオリンピックを見据えて体を鍛え始めています。
日本体育大学に通っているので、毎日6時半から8時くらいまで朝練をして、食事をって、午前中は授業、午後はまた練習です。朝はウェイトトレーニングのような体力づくりがメインで、午後はこのマットの上でスパーリング、実戦的な練習です。これが月曜から土曜まで週6日あります。
日曜日だけは休みですね。私はオンとオフをはっきり分けているんです。オフは温泉に行ったり、友達とおいしいものを食べたり、思い切り楽しく過ごしています。

──朱理選手が競技を始められたのは4歳の時、俊一さんのレスリングクラブだったそうですね。

俊一 はい。先に私のことを話しますと、1987年に日体大を卒業して、地元三重の県立いなべ総合学園高校で教師になったんです。いなべは柔道が盛んな地域で、ここも柔道部が有名でした。初めバレーボールの顧問になったんですが、私はレスリングで国体まで経験した人間ですので、どうしてもレスリング部をつくりたい。
ただ、練習場からしてないわけです。そこで有志の生徒を集めて、砂場、次に体育館の客席通路、そしてステージと、空いているところに練習の度にマットを敷いて、レスリングを教え始めました。柔道部の顧問を任されてからは、少しずつ柔道場を占領して(笑)。かなり反発を喰らいましたけれども、3~4年かけてようやくレスリング部を形にしたんです。
田舎の高校ですから、選手を集めるのもひと苦労なわけです。ならば自分でやろうと決めて、将来うちの部に入ってくれるようにという思いで、ジュニア選手を指導する「いなべクラブ(現・いなべレスリングアカデミー)」をつくったんです。高校の練習場を週に何回か使わせてもらう形でね。そこに数年後、朱理の7つ上の兄・ゆうが入ってきたんです。

朱理 兄は早くから全国大会に出ていました。

俊一 妻の千夏も3歳の朱理を一緒に練習場に連れてくるようになったのが始まりです。朱理にはいずれレスリングをやってほしいと内心思いながら、そばで遊ばせていましたね。そうしたら1年ほど経って、本人が「やりたい」と。

朱理 その頃の記憶は、まったくと言っていいほどないです。ただ、家族内で兄に話題を取られる悔しさは、間違いなくあったと思います。

俊一 実を言うと、ちょっと意図した部分はあるんです。息子の試合が終わると決まって、妻を交えて家族で反省会、ミーティングをしていました。小さい朱理は話に入れなくて寂しい、輪の中に入りたいと思うんじゃないかと。ただ親の思いを押しつけない、強制はしない。ここは気を配りました。

朱理 確かに強制で始めていたら、私の性格上、続かなかったと思います。のびのびさせてくれたことが、いままで17年間続けてこられた原点ですね。おかげで、レスリングを好きになりました。

俊一 これは、高校でゼロからレスリング部を立ち上げるにあたって、指導者としていかに生徒たちの心をつかむか、悩みに悩んで勉強したことが役立ちましたね。ビジネスや営業の本を読むと、お客様、相手の身になって考え、自然と手が伸びるようにしないとうまくいかないと書いてありました。
強制はしない。でもほったらかしにもしない。本人に任せ、自分でやる気を出させる。これはスポーツに限らず、人を育てるために欠かせない、指導者の大事な技術ではないかと思います。

パリ2024オリンピックレスリング女子53kg級金メダリスト

藤波朱理

ふじなみ・あかり

平成15年三重県生まれ。いなべ総合学園高校卒業、令和4年日本体育大学入学。父・俊一氏の下、4歳からレスリングを開始。令和2年全日本選手権、3年全日本選抜を制し、同年の世界選手権を高校3年生で制覇。6年初出場となるパリ五輪レスリング女子53kg級で優勝。中学2年生より公式戦無敗を保ち、同大会優勝を以て連勝記録を137に伸ばす。