2017年7月号
特集
師と弟子
対談
  • 日本ウエイトリフティング協会会長三宅義行
  • 重量挙げ女子日本代表三宅宏実

父と娘の二人三脚で
掴んだ執念のメダル

史上初の快挙は
かくて生まれた

昨夏のリオ五輪、怪我に苦しみながらも、8位からの大逆転で見事銅メダルを獲得した重量挙げ女子日本代表の三宅宏実さん。その宏実さんを誰よりも支え、2大会連続のメダル獲得へと導いたのが、監督であり、父親である三宅義行氏だった。日本女子重量挙げ史上初のメダル、日本五輪史上初の父娘メダルという2つの快挙はいかにして生まれたのか。二人三脚で歩んできた16年の道のみを振り返りつつ、勝利への方程式に迫る。

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リオ五輪3か月前の怪我

——ロンドン五輪の銀メダルに続いて昨年(2016年)のリオ五輪では、8位からの大逆転で見事銅メダルを獲得。おめでとうございます。

三宅宏実(以下、宏実) ありがとうございます。振り返ってみて、やはり2大会連続でメダルを獲ることの難しさであったり、5年前26歳で迎えたオリンピックと昨年30歳で迎えたオリンピック、その4年の長さや重みというものを改めて思い知りました。
でも、その中でメダルを獲れたことは自分自身の中で自信に繋がりましたし、ほっとした、嬉しかったっていうのが素直な気持ちですね。

三宅義行(以下、義行) 2004年のアテネ五輪から始まって、2008年の北京五輪、2012年のロンドン五輪、2016年のリオ五輪と、4大会にわたって出場できたこと、しかも2大会連続でメダルを獲れたことはすごいですし、それはやっぱり本人の目標の高さですよ。目標が高いからしっかりとトレーニングを積めた。その結果だと思います。
私は彼女の父親であり、監督ですけれども、娘が競技を始めてからの16年間、常に監督、コーチとして接してきました。本人の持っている能力を最大限に引き出し、一番高い表彰台に立つという夢を成し遂げようと。
その中で一番大事なのは、常に4年先を見てやること。目先の結果や1つの大会に囚われず、4年先のオリンピックにピークを合わせる。というのも、私の選手時代は失敗の連続で、力はあったんだけれども、オリンピックの年は怪我をしたりしてサイクルが悪く、結局4回トライしたうち1回しか出られなかった。
唯一出場した1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得しましたが、そういう失敗をたくさん積んだものですから、娘には同じ轍を踏まないように伝えてきたんです。やっぱりオリンピックというのはアジア大会や世界選手権とは全く次元の違う独特の魅力があるのでね。

——しかしながら今大会は直前に腰痛が悪化し、万全とは言えない状態での戦いとなりました。

宏実 父の指導のとおり、4年に1回のオリンピックの時にピークを持ってくる予定で準備していたんですけれど、それが思うようにいかなかった4年間でした。
父には、そろそろオーバーワークになって怪我をするから練習はこの辺にしときなさい、と言われていたものの、私自身やはり欲が強くて、自己ベストの記録に戻したいという思いから、ちょっと痛くても我慢していたんです。それをずっと重ねていくうちに疲労が溜まり、オリンピックの3か月前に怪我をしてしまいました。

義行 40年近くアスリートを指導していて感じるのは、男性と女性は違うということですね。男性は痛みに対しては結構だらしないところがあって、体に違和感があるとパッと練習をやめちゃう。
でも、女性は強いです。痛くてもやるんですよ。だけど、そこで頑張り過ぎて怪我をしてしまう。だから、いい加減にしとけよって言うんですけど、いい加減ができない。もっともいい加減なやつは強くなりませんがね。
背骨の4番と5番のところに炎症を起こしてしまったのは、結局そういう理由なんです。

宏実 ものすごく後悔しましたし、毎日が不安でしかなかったですね。リオに入ってからも調子は上向かなくて、試合の3日前に競技人生で初めて痛み止めを注射したり、最後の調整でスタート重量を落とさなければならないなど、さすがに落ち込んでしまい、母に「もうボロボロです。ダメかもしれない」とメールを打ったりもしました。
でも、怪我をしてしまったことは仕方ないので、とにかく一日一日できることを精いっぱいやろう、やるべきことだけはしっかりやって自信を持って試合に臨もうと思って、父に相談しながら調整を続けていきました。

日本ウエイトリフティング協会会長

三宅義行

みやけ・よしゆき

昭和20年宮城県生まれ。法政大学卒業後、自衛隊体育学校に在籍。43年メキシコシティ五輪ウエイトリフティングフェザー級で銅メダル。44年、46年の世界選手権でそれぞれ優勝。現役引退後は指導者として数多くの重量挙げ選手を育成し、日本重量挙げ界の発展に貢献する。平成13年東部方面総監部勤務を最後に一等陸佐で退官。28年より現職。

8位からの大逆転銅メダル

——迎えた試合当日、1つ目の種目であるスナッチ(バーベルを両手で一気に頭上へ挙げ、立ち上がる競技)では、3回の試技のうち2回連続で失敗してしまったわけですが、あの場面はどういう心境でしたか。

宏実 2本目を落とした時はもうダメかな、これで終わりかなっていう不安がよぎりました。ただ、インターバルは1分しかないので、その1分の間に気持ちを整理しなければならないんです。

——その時、義行さんは監督としてどんな言葉を掛けられましたか。

義行 いままで2回連続で失敗した試合は一度もなかったんですよ。私も後がない、これが運命なのかという思いも頭をかすめました。
でも、私が不安を露わにしては、彼女に伝わってしまう。だから、「大丈夫、大丈夫」「過去の2回はもう頭の中から切り捨てろ。次がファーストトライだと思ってやれ」「絶対取れるから行ってこい」と言って、送り出したんです。
とにかく選手に自信を持たせて、テンションが上がるように褒めて乗せていく。「大丈夫だよ」「挙がるよ」「いける」「どうってことない」「普段やっていることをやればいい」「100%以上は望まない。95%で十分」。そういった激励の言葉を掛けてやるのが私の役目ですから。逆に言うとそれしかないんですよ、私にできることって。

宏実 父の言葉を受けて、自分自身と対話する中で、もし4回目のオリンピックが記録0で帰ることになったとしても、それは私にとって必要なことなんだと受け入れようと心を切り替えました。
やるべきことはやってきたので、もう思い切ってやろう、1%でもある可能性を信じてとにかく頑張ろうっていう気持ちで、最後の試技に臨んだんです。3本目に取ることができたのは奇跡というか、あの時は会場からの声援がすごく大きくて、何かこう自分で取ったというよりも……。

義行 会場が取らせてくれたような感じだね。

宏実 そう。まさに取らせてもらったという気がします。たくさんの人たちの応援に救ってもらった。目に見えない力の大きさをすごく感じました。
何とか望みを繋いで、クリーン&ジャーク(バーベルを両手で一旦胸上まで挙げ、両脚を前後に開きながら頭上に挙げる競技)に進みましたね。

宏実 最初私は8位だったんですけど、ジャークに入った途端に失敗する選手が続出しました。そういう意味では運が味方したのかもしれません。

義行 さっき彼女が言っていたように、痛くてもきょうできることを精いっぱいやってきた。そういう日常の努力の積み重ねがあったから、あれは神様が運をくださったんじゃなくて、自分で引き寄せて掴んだものだと思います。
——ジャークでは、1回目成功しながらも2回目失敗。最後ここで決めればメダル獲得というプレッシャーのかかる場面をいかにして潜り抜けたのですか。

宏実 やっぱり絶対に表彰台に立って笑顔で日本に帰りたかったですし、せっかく目の前にチャンスがあるのに、それを自分で掴めないのは悔しいという思いでしたね。
オリンピック前年の世界選手権で銅メダルを獲ったんですけど、それは他の選手が失敗したから結果的に銅メダルだったという試合でした。受け身で終わってしまったわけです。だからオリンピックでは絶対に攻めの試合をしたいと思っていて、実際にそのチャンスが目の前にあったので、最後の3本目は自信を持って攻めることができました。

重量挙げ女子日本代表

三宅宏実

みやけ・ひろみ

昭和60年埼玉県生まれ。平成12年より父・義行の指導の下、重量挙げ競技を始める。五輪は16年のアテネ大会から4大会連続出場。24年ロンドン大会では銀メダル、28年リオデジャネイロ大会では銅メダルを獲得。女子48キロ級及び53キロ級の日本記録保持者。現在いちご㈱ウエイトリフティング部選手兼コーチ。