2016年10月号
特集
人生の要訣
対談
  • 曽野綾子作家
  • 鈴木秀子文学博士

人生をどう
生きるのか

大学時代からの長年の友人である曽野綾子氏と鈴木秀子氏。卒業後、曽野氏は文壇デビューを果たし、創作活動の傍らアフリカ支援など幅広い社会活動に従事してきた。一方の鈴木氏はシスター、教育者としての道を歩み、いまもなお悩める多くの人たちの声に耳を傾け続けている。ともにキリスト教をベースに人生観を培ってきたお二人が語り合う人生の要訣。

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小説を書くことが禁じられた学生生活

鈴木 学生時代の親友だった曽野さんと、こうしてお会いするのはクラス会以来ですね。ゆっくりお話しできる機会はなかなかありませんでしたから、きょうはとても楽しみにしてきました。

曽野 私もです。シスターになられるというのは、私たちクリスチャンにとって一つの偉業なわけですし、今日まで鈴木さんがどのように歩んでこられたのか、じっくりお聞きしたいと思っています。

鈴木 曽野さんとお会いできるというので、私も久しぶりに若い頃のことをいろいろと思い出していました。まず何よりも静岡の田舎から出てきた私にとって、聖心女子大学の雰囲気は大変なカルチャーショックでしたね。授業はすべて英語でしたし、国連難民高等弁務官を務められた緒方貞子さん、皇后陛下になられる正田美智子様、シスターの渡辺和子さんなど錚々たるご令嬢が学生としていらっしゃったんです。その中でずば抜けて成績がよく、キラキラと輝いていらしたのが曽野さんでした。

曽野 輝いてなんかいないの。学校の目を盗んでいかに小説を書くかって、頭の中はそればかりでしたから(笑)。暗い青春もそれなりに意味はありますけどね。

鈴木 それもまた曽野さんの大きな魅力です。

曽野 当時、聖心では小説を書くことは身を持ち崩す、堕落に繋がるといってやめるように言われていたんです。

鈴木 そういえば、学長室に呼ばれて「あなたはせっかく素晴らしい才能があるのに、小説を書いて人生を無駄にすることはない」と直々に注意を受けられたこともありましたね。曽野さんが学長室から出ていらっしゃった時にたまたま私が通りかかって、「学長からこんなことを言われたんだけど、自分は絶対にやめない」って。曽野さんの信念の強さに驚いたことをいまもよく覚えています。

曽野 実際に捨てられた作品もあったのよ。でも、いま考えると未熟な作品でしたから捨てられてよかったんだわ。「あんな作品を世に出してはいけない」という神様のおぼし召しじゃないかしら(笑)。

作家

曽野綾子

その・あやこ

昭和6年東京生まれ。29年聖心女子大学英文科卒業。第15次新思潮に参加、文壇デビュー。創作活動の一方、精力的に社会活動も行い、54年ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章受章。平成5年日本芸術院賞・恩賜賞受賞。9年海外邦人宣教者活動授助後援会代表として吉川英治文化賞、読売国際協力賞を受賞。7~17年日本財団会長。日本芸術院会員、日本文芸協会理事。現在、日本郵政社外取締役。著書に『いまを生きる覚悟』(共著/致知出版社)など多数。

時流に流されない生き方

鈴木 私たちが聖心女子大学に入ったのは、終戦から5年経った頃でしたが、終戦時、私は大変なショックを受けたんです。それまで「陛下のお写真が掲げられた奉安殿や神社の前では必ずお辞儀をしなさい」と厳しく指導していた教頭先生が、終戦を境に「いつまでも奉安殿や神社の前でお辞儀をする馬鹿者がいる」とおっしゃるようになったんです。
そして9月の授業で最初にやったのは、教科書でいままで大切だと言われていた部分に墨を塗ることでした。まるで自分の心に墨を塗るように、大事にしていたものをすべて否定されて心に穴があき、何を頼りに生きていったらいいか分からない。そういう状態で聖心に入学しました。
その頃、曽野さんが私に聖心女子学院の高校時代の話をしてくださいました。教室で外国人のシスターたちが授業をしていると、そこに憲兵がやってきて教壇を奪って「何でそんなに馬鹿げた宗教の話や外国人の講義を聞くんだ」と話を始める。その間、シスターたちは後ろに座っていて、憲兵が帰った途端、元通りに教壇に立って、あたかも何事もなかったかのように授業を続けられた、と。

曽野 ええ。その光景はいまもよく覚えています。

鈴木 この話を聞いて私は「こんなにも変わる世の中で、変わらないものがあるんだ」ととても衝撃を受けました。それが私が修道院に入るきっかけになったんですね。それから、曽野さんと親しくしている中で、ある時お母様のお話をなさったんですよ。お母様に自殺願望がおありだったとお聞きして、「こんなに満たされた曽野さんの中にも苦しみがあるのか」と。世の中というのは、よいことと悪いことが半々で、すべてがバランスを取って起こっている。一見、悪く思える出来事にもそこに神様の計らいがあり、自分の受け止め方次第ではよき方向に変えることができる、と思うようになったのも、この頃のことです。

曽野 いま鈴木さんがおっしゃった時流に流されないということを私は学校で教わりました。大切なことでしたね。
戦後の聖心には、戦前のやや儒教的、封建的な雰囲気が残っていて、シスターが教室に入る時は必ずドアを開けてお待ちするように教育されていました。その中に男性の先生がいらして、留学中にレディファーストを習ってお帰りになっていた。教室を出ようとして入り口でぱたりと鉢合わせした時、私が当然のように「どうぞ、先生」と申し上げると、先生は「いや、どうぞ」とおっしゃる。私、気が短いし、モタモタしたくないものですから、先生より先に教室を出ちゃったんです。そうしたら、イギリス人の老齢のシスターがそれを見ていて、チッチッチッと舌打ちで注意をされていた(笑)。

鈴木 そうそう、シスターたちはそうなさってました(笑)。

曽野 「先生よりも先に学生の自分が教室を出るとは何事か」ということですね。戦後の儒教が排斥された時代ですけれども、時流に流されずに日本人になる方法を私はイギリス人のシスターから教わったんです。

鈴木 その頃のマザー・ブリッド学長の口癖が”Every solitary single each one of you”皆さん一人ひとりが大切な存在だし、一人のために皆さんが行動しなさい。一人ひとりが自分で判断し、責任を取りなさいということをいつも教えてくださいました。
ブリッド学長はアメリカ人でしたが、「留学する必要はない。日本語と日本の文化をしっかり身につけなさい。世界のどこに行っても通用するマナーを身につけなさい」ともおっしゃっていました。だから、国語は私たちの必須科目だったじゃありませんか。

曽野 ブリッド学長はこんなこともおっしゃっていました。”To be international,be national”よい国際人になろうと思ったら、まずその国の国民として資格のある人間になりなさい、ということですね。これもいい言葉だと思うんです。
その頃、GIと呼ばれたアメリカの軍人が日本にたくさんいて、街を歩きながらコーラをラッパ飲みする姿が、私なんかにはとても新鮮に見えました。ところが学長は「飲み食いしながら歩くのは教養のない人の風習だから、GIのやることを真似てはいけない」と自国民ですけど、はっきりおっしゃるのね。見事なものでした。

鈴木 いまは、道を歩きながらペットボトルの水などを飲んでいる人も目立ちますが、そんなことは考えられない時代でしたね。

文学博士

鈴木秀子

すずき・ひでこ

聖心女子大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。聖心女子大学教授を経て、現在国際文学療法学会会長、聖心会会員。日本で初めてエニアグラムを紹介し、第一人者として各地でワークショップなどを行う。著書に『幸せになるキーワード』(致知出版社)『死にゆく者からの言葉』(文藝春秋)『愛と癒しのコミュニオン』『あなたは生まれたときから完璧な存在なのです』(ともに文春新書)など多数。