2024年11月号
特集
命をみつめて生きる
一人称
  • 白もくれんの会会長衣川清喜
いのちの教育の探究者

東井義雄の
生き方が教えるもの

四方を山に囲まれた兵庫県但馬地方の一教師でありながら、その名を全国に知られる教育者・東井義雄氏。東井氏が生涯を捧げた「いのちの教育」の実践記録や残した言葉は、その死から30年以上が経過したいまなお、教育者だけでなく多くの人々の指針となっている。教え子であり、東井氏を顕彰する白もくれんの会会長である衣川清喜氏に師の思い出を交えて、その生き方をお話しいただいた。

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厳格で優しく温かく頼れる教師

東井義雄先生が、ご自身の母校でもある相田あいだ小学校(兵庫県豊岡市但東たんとう町)で私たち5年生のクラスを受け持たれたのは昭和32年、先生が45歳の時でした。当時の先生は生活苦ゆえに心まで貧しくなっていく村の子たちの現状を憂い、子どもたちに希望と勇気をもたせる「村を育てる学力」の育成に力を注がれていて、その優れた実践によりペスタロッチー賞を受賞されたのも、私たちのクラス担任をされていた時でした。

終生、子どもと共にありたいというのが先生の願いでしたが、病気休暇の相田小校長の後を継いで2年後には校長にされましたので、クラス担任として直接指導を受けたのは私たちが最後となります。5、6年生の2年間という短い間でしたが、その謦咳けいがいに接し得たことは、いま振り返っても実に幸運なことでした。

但東町は兵庫県の山間部にある小さな町です。その一教師に過ぎなかった先生は若い頃から生活つづり方教育(子どもたちが生活の中で感じたこと、考えたことを書くことで表現させる教育)で注目を集め、『村を育てる学力』の出版により全国に知られた存在になられました。先生の教育者としての功績は枚挙にいとまがありませんが、通信簿を子どもの優劣を示す相対評価から、一人ひとりの伸びを評価する絶対評価に切り替えられたこともその一つといえるでしょう。

とりわけ後年、校長として最後の勤務校となった養父やぶ八鹿ようか町八鹿小学校での8年間の実践記録である『培其根ばいきこん』は教育に懸ける先生の情熱を何よりも物語るものであり、「教育の金字塔」と呼ばれるほど高い評価を得ました。

『培其根』は現場の先生方がその週の予定や反省、悩みなどを書いて提出される「週録」に、東井先生がご自身の思いや願いを心を込めて書き込まれたもので、ガリ版刷りそのままを製本したものです。時に夜を徹して細かい字でぎっしりと書かれた約800ページにも及ぶ指導内容は、東井先生の子どもたちや先生方に対する思いやりにあふれ、現在もなお全国の教育者に大きな指針を与えています。

そういう東井先生の教育をひと言で表現すれば「いのちの教育の探究」と表現することができます。先生が残された言葉に
「どの子も子どもは星」「子どもの命に触れないと、本物の教師になれない」
とありますが、子どもたち一人ひとりの持ついのちを見つめ、その素晴らしさを育み伸ばすことこそが教師の役目と考えられたのです。

では優しさだけを追究されたのかといえば、そうではありません。
「自分は自分の主人公。世界でただ一人の自分を創る責任者」
という先生の言葉に象徴されるように、いかに主体性を立てて人生を歩むことが大事かを子どもたちにしっかり教え込まれました。実際、私の知る先生は厳格で優しく温かく頼れる教師というイメージがあり、ここではそういう先生の教育者としての一端をお伝えできたらと思っています。

私は長年、兵庫県職員として農業改良普及指導に携わり、退職後は東井義雄記念館館長を経て現在は東井先生を顕彰する「はくもくれんの会」会長として先生の偉業を語り継ぐべく活動を続けています。白もくれんとは
「白木蓮が咲いた その鮮烈な白 ほんとうの白」
という先生79歳の時の絶筆から頂戴した言葉です。様々な立場で先生の人生に関われることは実に光栄であり、先生が残された教えや思いを学び、顕彰事業を通してその遺徳を多くの人につなげるのが私に与えられた使命と思っています。

白もくれんの会会長

衣川清喜

きぬがわ・せいき

昭和21年兵庫県生まれ。県立農業講習所卒業後、県庁入庁。主に県内の農業改良普及センターに勤務。豊岡農林水産振興事務所長、但馬県民局地域振興部長などを歴任。平成19年但馬ドーム館長、平成22年東井義雄記念館館長、令和3年より白もくれんの会会長。