追悼

追悼・伊與田 覺氏

去る平成28年11月25日、伊與田 覺先生がお亡くなりになりました。享年101でした。碩学・安岡正篤先生の志を継ぎ、東洋先賢の叡智にもとづく人間教育に生涯を捧げた、求道一途の人 生でした。弊社もその道縁に恵まれ、多岐にわたるご指導を賜ってまいりました。
7歳でご母堂を失い、寂しさを克服するために始めた『論語』の素読を、生涯にわたり実践。その功徳は内から滲み出る風韻となり、一言一句に万鈞の重みをもたらして多くの人を感化しました。
致知出版社からは平成18年の『「人に長たる者」の人間学』を手始めに数多くの書籍を上梓いただきました。中でも最後の著書となった『「孝経」を素読する』は、101歳の先生が後世への祈りを込めて認められた珠玉の一冊です。
書籍の刊行に加えて10年に及ぶ連続講座でのご講話、8年に及ぶ「巻頭の言葉」のご執筆など、そのご恩は計り知れません。奇しくも本誌平成29年1月号掲載の「巻頭の言葉」が先生の絶筆となりました。
ここに生前ご縁の深かった方々のお言葉をご紹介し、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


音も無くそっと散りゆく楷の葉か──伊與田 覺先生辞世の句

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    弔辞

    論語普及会会長

    村下好伴

    先生‼ 先生‼ 先生‼ どうかもう一度お声をお聞かせ下さい‼

    人間のさだめとして必ずお別れの日の訪れるのは分かり切っておりながら、今はこう叫ばずには、おれません。

    先生は弱冠7歳にして御母堂とお別れになったと承っておりますが、その御母堂は常に先生のことを、この児は必ず教師にするのだ、と仰せになっておられたと洩れ承っておりましたが、その御母堂のお望み通り、師範学校にお入りになり、只ひたすら教師の道を歩まれ、その教え子は数知れず、今も全国各所に於いて、又、中には海外に於いてご活躍の方も多く居られると承っております。

    先生は若き頃より東洋思想哲学の泰斗・故安岡先生の御薫陶を受けられ、以来関西における安岡教学の伝道者として政財界から教育界は申すに及ばず、来る者は拒まず去る者は追わずの自由意志を尊重され、常に我が国の未来に思いを致され、憂えられ、その根本的再建力としてひたすら国家有為の青少年育成のために、己を忘れ、家族の困窮も顧みず、世のため人のために生涯を捧げられました。

    先生の尊い後ろ姿は我々の脳裡に、そして胸に深く永遠に刻まれております。

    先生‼ 長い間本当に有り難うございました。そしてご苦労様でした。どうか先生のお越しを一足先に逝ってお待ちの、あの最愛の奥様と再会され、手を携えて共に九泉の湖に、三千世界の大空を存分にお楽しみの日々を送られますことをひとえに念じ申し上げつつ、お別れの言葉とさせていただきます。

    さようなら。

    最後まで現役の教育者だった父

    伊與田 安正

    父は11月25日の朝、自宅におきまして家族に見守られて安らかに101歳の生涯を閉じました。

    父は皆様ご存じのように、幼少の頃に『論語』に出合い、約1世紀という長い人生の大半、『論語』の普及を中心とした人生を生きてまいりました。その間、父が何を考え、どのような行動をしてきたかにつきましては、講演や書物をとおして私たち家族以上にご存じの方も多いのではないかと思います。

    父は最後まで現役の教育者でした。皆様と直接向き合い、孔子様や安岡正篤先生をはじめとした先哲の教え、また自分の生きてきた様を、年を重ねたありのままの姿でお伝えし、命を閉じることができれば本望であると考えておりました。父はまさに亡くなる直前まで、日本を道徳の心を持った本来の姿に戻したいと声が出る限り、熱く語っておりました。

    父の楽しみに毎晩のぐい飲みいっぱいの晩酌がありました。これも直前まで続けておりました。あちらの世界を垣間見始めた頃からベッドの上に身を起こし、まさにそこにぐい飲みがあるが如く柔らかく手に持ち、ゆっくりと口に近づけ、本当にお酒があるが如く飲み、最後には両手で持って飲み干し、また元の場所に静かに戻すということをしておりました。その流れるような仕草は父独特の晩酌の作法でした。

    25日の朝、お酒と、天満宮のご神水を混ぜて温めたものを綿に浸ませ、父の口に入れますと、父は穏やかな顔で美味しそうに吸い、そして飲みました。それからほどなくして、安らかに息を引き取りました。ほろ酔い加減であちらに行ったのではないかと思います。まさに末期の水であり、末期の酒であったと思います。

    父は最後まで充実した人生を送ることができたと思います。これもひとえに皆様方のお陰と、心より御礼申し上げます。

    (告別式の喪主ご挨拶より)

    感謝の気持ちを込めて

    こども論語塾塾講師

    安岡定子

    もう9年程前のことになるでしょうか。『こども論語塾』(明治書院)という本を出版した際に、毎週末、各地の書店で、無料体験論語塾というイベントをさせて頂いていました。

    即席で書店内に論語塾のスペースを作り、来店しているお子さんたちに参加してもらうという企画でした。30分で5章句を素読して、解説しました。毎回、会場に行ってみないとお子さんの集まり具合や年齢構成もわかりません。お子さんがたくさん集まり、活気がある時もあれば、苦労してチラシを配っても、殆どお子さんが来ないこともありました。

    当時は『論語』に興味を持つ人も少なく、ましてや子供と『論語』を読むなんて、とても珍しいと思われていました。親御さんが店内で書籍を見て歩いている間の託児所代わりになることもありました。お買い物を終えた両親が迎えにくると、授業の途中でもお子さんの手を引いて帰ってしまうということもありました。今振り返ると、貴重な経験だと思えますが、当時は心挫けることもたびたびでした。

    夏の暑い日、大阪府豊中市の書店でイベントが企画されていました。今日はどんな会場だろうか、お子さんは何人集まるだろうか、いろいろなことが頭を巡ります。まもなく始まる、という頃、書店の入り口から悠然と歩いてくる伊與田先生のお姿を発見。いつもの笑顔が段々と近づいてきます。驚き、感激、狼狽。

    本来はお子さんが対象の論語塾ですので、会場にはカーペットが敷かれていて、お子さんたちはそこに座っていますが、先生には椅子が用意されました。幼いお子さんたちに邪魔にならないように端に座られていましたが、その圧倒的な存在感は、今もはっきりと覚えています。

    先生の前で行った授業は、後にも先にもその一回だけです。自分の未熟さに恥ずかしさでいっぱいでしたが、先生は授業の内容については一切おっしゃいませんでした。

    「これを現代の辻説法という。お続けなさい」

    このたった一言が、その後の私の支えとなりました。場所や人数の心配をするのではなく、自分の力を尽くすことが大事だということを学びました。

    『仮名論語』を開けば、先生に会える気がします。お声が聞こえて来るように感じます。先生が示して下さった道を、後からゆっくりと噛みしめながら歩いていきたいと思います。

    今頃は祖父と再会していることでしょう。私の様子は先生から祖父にお伝え下さい。

    本当にありがとうございました。

    伊與田 覺先生追悼の言葉

    安岡正篤記念館副理事長兼所長、郷学研究所

    荒井 桂

    伊與田覺先生が、101歳の豊饒な天寿を完うされて逝去された。文字通り大往生の一言に尽きる。ここに往時を偲びつつ、哀悼の誠を捧げ御冥福をお祈りするところである。

    顧れば、有難い御縁を頂いて、4回も、じっくりとお話を伺い、お人柄に接する機会に恵まれた。1度目は、私どもの同人誌『郷學』(季刊誌)の「人を訪ねて」欄のインタヴューで、先生の御生涯と安岡正篤先生との邂逅から愛弟子への経緯について承ったお話であった。その中で忘れ難いのは、あたかも孔子門下の子路の如き存在であったこと。時には、土佐犬のようだと安岡先生から揶揄されたという話であった。子路は時折、師に抗い、窘められつつも、孔子に愛されていた。弟子の中で最も度たび登場する人物として知られている。

    後の2度は、『致知』誌掲載の対談の機会の折であった。その1つは、2011年7月号(特集試練を越える)の対談「時務を識るは俊傑にあり―古典に学ぶリーダーの心得」の時であり、もう1つは、2012年7月号(特集将の資格)掲載の「人に長たる者の人間学―リーダーがあるべき姿を先哲に学ぶ」の対談の時であった。私どもより20歳年上の伊與田先生は90歳代の後半であったが、その博覧強記ぶりはいささかも衰えを見せず、『論語』を始め四書の章句は、よく憶えておられて、70歳代後半の私どもも、ただ舌を巻くばかり、対談というよりむしろ「参師問法」であった。

    更にもう1度の機会は、致知出版社刊の『大人のための「論語」入門』という単行本の対談の機会であった。その時、伊與田先生は『論語』を愛読味読すること実に90年、遅く読み始めた私どもは50年というところであったが、教えて頂くことが多かった。雍也篇に「之を知る者は、之を好む者に如かず、之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」と楽しむ境地を称えているが、伊與田先生は、更にその上に「遊ぶ境地」を説いておられたのであった。まさに「仁者は寿し」の御人徳であった。

    人生の師父との道縁に感謝

    全国木鶏クラブ代表世話人会会長

    三木英一

    永年に亘って御教導を賜わりました伊與田覺先生が、平成28年11月25日に御逝去された報に接し、私は29日に箕面市立聖苑で執り行われた御葬儀告別式に参列致しました。

    胸元に先生御自身が心を籠めて謹書なさった『仮名論語』を抱えて、お棺に安らかに眠っておられる神々しい御尊顔を拝し、筆舌に尽くせぬ淋しさを感じながら、今までに頂きました有難い道縁と深い学恩に衷心より感謝申し上げてお別れを致しました。ここに謹んで思い出の一端を認めさせて頂きます。

    私は40歳代半ばから日本精神と東洋思想の探求に精を出してきました。そして伊與田先生の御講話を拝聴する機会にも恵まれ、大変感動致しました。入手した『仮名論語』には、「三木英一道契座右 一貫 後学有源山人」とサインをして下さいました。そして今日まで毎日、その『仮名論語』の素読を続けて参りました。

    平成3年5月にはお山の成人教学研修所に上がり、宿泊研修を受けました。先生の人間味溢れる御講義は勿論のこと、素晴らしい立居振舞に直に接し、感慨を深くしました。それ以来25年に亘って親しく有難い御指導を受けて参りました。

    平成24年11月23日には、姫路木鶏クラブ創立25周年記念大会に於て、「論語に学ぶ人間学」と題して、先生ならではの含蓄のある記念講演を賜わりました。月例会では、『「人に長たる者」の人間学』も学ばせて頂きました。

    平成28年9月19日の有源招魂社先哲例大祭では四條畷神社会館に於て、不肖の弟子の私が、「中庸の教えに導かれて」と題して、子思子の教えについて講話させて頂くという有難い御縁まで与えられました。

    『致知』誌上に平成21年12月号から29回に亘って執筆して下さった「巻頭の言葉」も今年(2017年)の1月号が残念ながら絶筆になりました。全部別ファイルにして繰り返し拝読しております。思い出は尽きませんが機会ある毎に父親の如く諭して下さいましたことに深謝し、追悼の言葉と致します。

    伊與田覺先生、有難うございました。                                 合掌 鞠躬

    101歳、求道一筋の人生

    致知出版社社長

    藤尾秀昭

    伊與田先生が亡くなられた。平成28年11月25日午前9時35分。享年数え年101歳。

    常に眼前にあった見事な古木がどうと倒れた。そんな喪失感が日を追うごとに強くなっている。

    伊與田先生は大正5年6月15日、高知県で生まれた。7歳のとき母親を病で失う。泣き続ける子を心配したおじが『論語』の素読を教えた。これに夢中になって泣くことはやめた、という。以来最晩年まで、『論語』の素読は先生の日課になった。

    先生が安岡正篤師を知ったのは数え年20歳のときである。師範学校の恩師の紹介だった。この世にこんな人がいたのか──初めて講義を聴き、感動に体が震えた。生涯の子弟の交わりはここに始まる。

    伊與田先生に初めてお会いしたのは平成16年、先生が成人教学研修所の所長を退かれたときである。『致知』の愛読者を対象に6か月をワンクールとして古典講座を開講いただいた。この講座は実に10年続き、その講座録を中心に17冊の著作が生まれた。先生の足跡を後世に伝える役目を果たせたことを、光栄にも幸いにも思う。

    思い出は尽きない。数々の言葉が鮮烈に焼き付いている。中でも先生のお伴をして安岡正篤師のお墓に参ったときに話されたことは、先生の生涯を貫くテーマをうかがわせて印象深い。

    「安岡先生はこうおっしゃった。〈ぼくは陽明学者といわれるのは嫌いだ。ぼくは孔子の求めたものを求めて学んだ。君はぼくの求めたものを求めて学べ。ぼくの形骸を学んではいけない〉とね」

    また、この言葉も忘れ難い。

    「自分自身を修めるにはあまり効果を期待せず、静々と人知れずやられるといい。これを30年40年と続けていくと、風格というものができてくる」

    そして、先生はまさに次の言葉の如く人生を全うされたのだ、という思いを深くする。

    「西洋の老いは悲惨がつきまといますが、東洋的な老いは人間完成に向けた完熟期なのです。年を取るほど立派になり、息をひきとるときにもっとも優れた品格を備える。そういう人生でありたいものです」

    伊與田先生の教えにわずかでも触れた者として、不肖もまた、先生の求めたものを求めて学んでいきたいと思う。

    伊與田先生のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。