2021年6月号
特集
汝の足下を掘れ
そこに泉湧く
対談
  • (左)駒澤大学元総長大谷哲夫
  • (右)愛知専門尼僧堂堂頭青山俊董

道は足下にあり

目の前のいま、ここに命のすべてを注ぎ込む生き方を禅は私たちに教えてくれている。愛知専門尼僧堂堂頭・青山俊董氏、駒澤大学元総長・大谷哲夫氏は共に只管打坐の修行に打ち込みつつも、宗祖・道元禅師の教えを深く学び、その教えを広く伝えてこられた。長年、仏道に生き心を深く掘り下げてきたお二人に、これまでの歩みや禅の神髄を語り合っていただいた。

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ようやく仏法の入り口に立てた

青山 きょうは大谷先生が東京からお越しくださるというので、信州の陽光桜ようこうざくらを持ってきて床の間に生けてみました。この桜は特攻隊員の供養のためにつくられた新品種でございましてね。

大谷 いやぁ、悲しくも美しいですね。私も桜が大好きでいろいろなところにに行きますが、初めてで感激です。この尼僧にそう堂にも毎年の摂心せっしん(一定の期間、集中して行われる坐禅修行)の講師としてお迎えいただいていますが、先生の温かいおもてなしには、いつも恐縮してばかりです。

青山 大谷先生とお知り合いになって随分と長いですね。

大谷 最初にお目に掛かったのは50年以上前になると思います。昭和30年代、曹洞宗そうとうしゅうでも坐禅ばかりでなく、教化面を充実させなきゃいけないというので、宗学研究所、教化研修所を相次いで立ち上げました。青山先生は確か教化研修所の5期生でいらっしゃいますね。
当時、研修所は男僧ばかりでしたから、尼僧さんは珍しかった。それだけに青山先生は期待の星で、「すごい人がいるな」と思っていたものですが、私は宗研の最後のほうですから、私にしたら遠い存在で、親しくお話しする機会はありませんでした。
それから随分と時が流れ、平成20年頃、先生から連絡をいただき、尼僧堂で行われる緑陰禅りょくいんぜんという坐禅会で道元禅師どうげんぜんじの語録である『永平広録えいへいこうろく』について提唱(講義)をするよう言われました。

青山 私は取り澄ましているつもりはありませんが、よく「青山さんのそばに寄れなかった」と言われます。いつか、書家の相田みつを先生とご一緒した時も同じことをおっしゃっていました(笑)。

大谷 この尼僧堂にお招きいただいて嬉しいのは、講座の前に控え室にいると、先生が来て宗門の歴史や交流のあった方々についていろいろな示唆しさに富んだ話をしてくださることなんです。時間の超過を忘れるほどで、これは私の楽しみの1つです。ですから、いつかはその話をまとめるのも私の責務の1つかとも思っているところです。

青山 私が大谷先生に『永平広録』の提唱をお願いしていますのは、曹洞宗の場合、どうしても道元禅師が書かれた『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』に偏りますでしょう。そこに留まって『永平広録』や『従容録しょうようろく』まではなかなか進まないんです。

大谷 私は道元禅師の仏法は『正法眼蔵』はもちろん、その語録である『永平広録』を共に参究しなければ、その宗意の深意はきわみえないと確信して、『永平広録』を専門に学び、学生たちにも長年講義してきましたが、同じ道元禅師の大切な語録であるにもかかわらず宗門の方も一般の人はなおさら『永平広録』については、あまりご存じない。おっしゃるように、『正法眼蔵』にどうしても偏るんです。その点、ここでは、堂頭どうちょう先生のご指導のもとで、尼僧さんたちはとても熱心に『永平広録』を学んでくださいますね。特に青山先生の真剣さは際立っていて、1講座も欠席なさらず聞いていてくださる。

青山 私も『永平広録』をあまり勉強しておりませんものですから(笑)。仏法にご縁をいただいて、89歳になる今日まで歩いてまいりましたが、ようやく仏法の入り口に立てた、まったく足りていないという思いでいますだけに、専門の大谷先生からお話を伺えるのがとても嬉しいんです。

愛知専門尼僧堂堂頭

青山俊董

あおやま・しゅんどう

昭和8年愛知県生まれ。5歳の時、長野県の曹洞宗無量寺に入門。駒澤大学仏教学部卒業、同大学院修了。51年より愛知専門尼僧堂堂頭。参禅指導、講演、執筆のほか、茶道、華道の教授としても禅の普及に努める。平成16年仏教伝道文化賞功労賞を受賞。21年曹洞宗の僧階「大教師」に就任。著書に『道はるかなりとも』(佼成出版社)『一度きりの人生だから』(海竜社)『般若心経ものがたり』(大法輪閣)など多数。CDに『人間の根を養う禅の教え』『人間の花を咲かせる禅の教え』(致知出版社)など。

授かりの人生と選ぶ人生

大谷 青山先生が仏教の道を歩み始められたのは5歳の時だとお聞きしています。以来、80年以上修行一筋なわけですね。

青山 そうですね。私は「授かりの人生」と「選ぶ人生」ということをよく申し上げるわけですが、私の場合も最初は「授かりの人生」でございました。この愛知県というところは御嶽教おんたけきょうの信仰が盛んなところで、お祖父さんが御嶽教の大先達せんだつでした。私が生まれました時に、亡くなったお祖父さんが御講ごこうの座に出られて「今度、生まれてくる子は信州で出家するだろう」と予言をしたというんです。
信州の無量寺をお守りしていた伯母がそれを伝え聞いて私が5歳になるのを待って迎えに来たというのが事の次第です。親元を離れて無量寺に着いた時、師匠(伯母)が私を本堂に連れて行ってまず言いましたのが「仏様をよく拝んでごらん。仏様はいつでも見守ってくださるんだよ。仏様なんかいるものかと反発している時も、仏様のことなど忘れて眠りこけている時も、いついかなる時も見守り通しに見守ってくださるんだよ」と。そのことはいまもはっきり覚えております。

最初に覚えたのが『舎利礼文しゃりらいもん』、次に覚えたのが『般若心経はんにゃしんぎょう』というお経でしたが、1つ覚えるとカタカナで母に報告の手紙を出しました。母からは「よく早く覚えたね。私は覚えが悪くて、いつまでもお経が覚えられない。私のためにカタカナでいいから『般若心経』を書いて送っておくれ」という返事が来まして、私は得々としてカタカナで書いて送ったんです。
ずっと後になって11歳離れた兄が「あなたの5歳の時の『般若心経』を、母は生涯ふところに抱いて、時々出して読んでは涙をぬぐっていたよ」と話すのを聞いて、そこでようやくそれが母の老婆心だったと気づいたんです。御嶽教は『般若心経』を読みますから、母が読めないはずがないんですね。

大谷 実に慈悲深い立派なお母様ですね。

青山 中学を出ると頭をってこの尼僧堂にまいったのですが、さらに仏教の勉強をしたくて駒澤大学に進みました。その頃は全く迷いなく「この道を行くんだ。最高の道を行くんだ」という思いでした。そこから私の「選ぶ人生」が始まるわけです。
ただ、若いというのは欲張りでございましてね。たった1度の命なら最高のものに命を懸けたいという思いから、キリスト教をかじったり、共産主義を囓ったりもしました。一所懸命だったからでしょうか、大学の生ぬるい雰囲気も先生方もどうも気に入りません。講義で「お釈迦しゃか様はこうおっしゃった」「道元禅師はこうおっしゃった」という話を聞くと、「先生、ご自身はどうなんですか」と思わずただしたくなるんですな。だから、先生方からは随分生意気に思われていたはずです(笑)。

大谷 私も正しいと思ったことはすぐに口に出して言うタイプですから、よく分かります(笑)。

駒澤大学元総長

大谷哲夫

おおたに・てつお

昭和14年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科東洋哲学専攻修了。駒澤大学大学院博士課程。曹洞宗宗学研究所所員・講師を経て、駒澤大学に奉職。同大学教授、副学長、学長、総長、都留文科大学理事長、東北福祉大学学長を歴任。現・北京大学客員教授、国際(日中)禅文化交流協会会長。長泰寺住職。著書に『道元一日一言』(致知出版社)『祖山本永平広録考注集成(上・下)』(一穂社)『永平の風 道元の生涯』(文芸社)など多数。