2016年4月号
特集
夷険一節
対談
  • 筑波大学名誉教授村上和雄
  • 作曲家船村 徹

喜怒哀楽の人生を生きる

現役作曲家として日本の情緒を紡ぎ出す演歌をいまなお生み出し続ける船村徹氏、83歳。「王将」「なみだの船」「矢切の渡し」など数々の名曲を筆頭に、旺盛な創作活動によって積み上げてきた曲は5,000曲を超える。17歳で作曲家を志し、日本の歌謡界を長年牽引してきた。その人生には平らかな道も険しい道中もあった。その歩みを筑波大学名誉教授の村上和雄氏に伺っていただいた。

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歌は心で歌うもの

村上 船村徹記念館が昨年(2015年)春に栃木県日光市にオープンしたそうで、おめでとうございます。

船村 いやぁ、とにかく私は、そういうのが苦手なほうでしてね。皆さんのお気持ちは本当にありがたいんだけど、できたら私が死んでからにしてもらえないかと、生まれ故郷の日光市にも再三お願いしていたんですよ。ところがいまの市長さんが、私の後輩でしてね。ざっくばらんな人で、「急がなければいけませんね」なんて言われているうちに(笑)、いつの間にか完成しちゃったんです。

村上 生前に記念館が建つというのは大変珍しいですね。

船村 ええ。だから余計に恥ずかしいですし、あまりいい気持ちもしないものですよ(笑)。

村上 どんな展示内容なのですか。

船村 最近は記念館といっても随分とハイテク化が進んでいて、3Dの映像を見ながら曲を楽しむことができるんです。もっとも私は開館式典の時に行ったきりなんですよ。だから一度ゆっくり見ようと思っているのですが、なかなか行く機会がなくて。普段は人がいるから、休館の日にでも行かせてもらおうかと考えているんです。

村上 館内では船村先生の曲もたくさん聞けるのでしょうけど、これまでに5,000曲以上つくられたそうで、これはすごい数ですね。

船村 いえいえ。数が多ければよいというものではありません(笑)。昔から一杯飲むお金が欲しくて、それで必死に曲を書いているうちにそんな数字になっちゃったというのが本当のところで、お恥ずかしい限りで。

村上 いまも作曲活動は続けておられるそうですね。

船村 ええ。曲をつくること自体は昔と変わりませんね。ただ、音楽の世界全体を見ていて最近特に気になることがあるんですよ。
例えば本に置き換えて話をすると、全集ものとか単行本、文庫本とかいろいろありますが、最近の若い子たちが歌っている歌なんていうのはどれも週刊誌並みになってきているんです。いわゆる月刊誌でもない。とにかく最初から「なんぼ、なんぼ」と売り上げを上げるために予約を取って、それでパッと出したら、すぐ次にいくと。そのスピードが余りにも目まぐるしいというか。

村上 本にしても消耗品みたいに次から次へと出ていますね。

船村 本の場合は「読み捨て」という言葉がありますけど、いまや音楽も「聞き捨て」という言葉が当てはまるのではないでしょうか。
歌というのは本来心で歌うものなんですよ。昔の歌手は一曲一曲を本当に一所懸命歌ってくれました。ですからあの昭和の懐かしい時代の人たちは、いまも生きていると私は思うんです。

村上 僕は演歌が好きで、美空ひばりさんの歌を聞くと、そこに日本人の心というか魂が入っているような気がします。特に僕らの世代にとって演歌というのは特別なもので、日本の一つの文化と言ってよいのではないでしょうか。

船村 だと思いますね、私も。

作曲家

船村 徹

ふなむら・とおる

昭和7年栃木県生まれ。24年東洋音楽学校(現・東京音楽大学)入学。30年「別れの一本杉」の作曲で世に出る。以後、「東京だョおっ母さん」「王将」「矢切の渡し」「女の港」「兄弟船」「風雪ながれ旅」「みだれ髪」など数々のヒット曲を生み、5,000曲以上の作曲を手掛ける。日本作曲家協会会長、日本音楽著作権協会会長を歴任。紫綬褒章、旭日中綬章を受章。文化功労者。最新刊に『兄の戦争』(潮書房光人社)。

兄との思い出

村上 こうしてお会いするのは初めてですので、きょうはぜひ船村先生の作曲家としての歩みをお聞かせいただけますか。

船村 うーん、これは困っちゃいますね。大先生の前でお恥ずかしいですけども……。

村上 いやいや、船村先生のほうが大先生ですよ(笑)。

船村 私は6人きょうだいの末っ子として生まれたのですが、若くして戦死した兄がいるんですよ。福田健一といって歳は12も離れていたため兄弟というよりは先輩といった感じで、陸軍士官学校を卒業して陸軍大尉だったこともあって、威圧感がものすごくありました。
ただ、時折家に帰ってくると、必ず私にこう言うんですよ。「おまえは軍人になるんじゃないぞ」って。ところがあの時代というのは、子供たちは皆軍国少年でね、「何で俺だけ軍人になってはいけないのかな」という思いで聞いていました。
確かあれは最後に帰ってきた時だと思うのですが、その日は夜遅くに私の寝床に入ってきたんですよ。随分酔っていたようで、いろいろと話をしてくれましてね。
いつものように「おまえは軍人になるんじゃないぞ」と言った後に、「死ぬのは俺だけでいい。おまえはとにかく生きていくんだよ」ということを諭すように言われたんです。

村上 それがお兄様の最後のメッセージだったと。

船村 当時は終戦の1年前で、戦況もかなり厳しくなっていただけに、何か感じるところがあったのかもしれません。それだけに「とにかく生きていくんだよ」という言葉が注射のように効きました。
その後の人生には辛いことや、がっくりと気落ちして打ちひしがれたことも数多くありましたけど、そんな時に最後の心の拠り所だったのが兄でした。おそらく兄の存在がなければ、いまの自分はなかったと、そう思いますね。
それからこれはずっと後の話ですけど、陸軍士官学校出身者の遺族会に参加した時のことです。それまでは何だか畑違いのような気がして遠慮していたのですが、周りの方々から出たほうがいいと言われましてね。
そうしたら、当時生き残った方が私のテーブルにいらして、「いやぁ船村さん、僕は何十年ぶりにやっと胸のつかえが取れたよ」って言うんです。不思議に思ってなぜかとお聞きすると、こういうことでした。
兄はモールス信号を打つのが人の3倍も4倍も速かったそうで、その方が「どうして貴様はそういうふうにできるのだ」と聞いたらしいんです。そうしたら、「こんなのは、モールス信号と思うからダメで、音楽だと思って節でもメロディーでもつけてやれば簡単ではないか」と言ったと。
その方は兄の言葉がずっと腑に落ちずにいたようで、私が兄の弟だということが分かって、初めて納得がいったと喜んでいたことはよく覚えています。

筑波大学名誉教授

村上和雄

むらかみ・かずお

昭和11年奈良県生まれ。38年京都大学大学院博士課程修了。53年筑波大学教授。遺伝子工学で世界をリードする第一人者。平成11年より現職。著書に『スイッチ・オンの生き方』『人を幸せにする魂と遺伝子の法則』、共著に『遺伝子と宇宙子』(いずれも致知出版社)などがある。