2026年2月号
特集
先達に学ぶ
対談
  • お茶の水女子大学名誉教授藤原正彦
  • 京都大学名誉教授中西輝政

明治を創ったリーダーたち

日本よみがえりへの道

厳しい国際情勢の中で漂流を続ける日本。保守論壇の重鎮である藤原正彦、中西輝政両氏は、日本人がいま範として立ち返る原点は、近代日本を力強く切り開いた明治人の生き方にこそあると説く。武士道精神に基づく見識や気骨を体した先達の姿勢は、現代に生きる私たちの魂を鼓舞し、本来あるべき人生への処し方を示してくれる。

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    お茶の水女子大学名誉教授

    藤原正彦

    ふじわら・まさひこ

    昭和18年旧満州新京生まれ。東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。理学博士。コロラド大学助教授などを経て、お茶の水女子大学教授。現在は同大学名誉教授。53年に数学者の視点から眺めた清新な留学記『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。ユーモアと知性に根ざした独自の随筆スタイルを確立する。著書に290万部の大ベストセラー『国家の品格』(新潮新書)の他、『国家と教養』(同)『スマホより読書 本屋を守れ』(PHP文庫)『名著講義』(文春文庫)『藤原正彦の代表的日本人』(文春新書)など多数。令和7年菊池寛賞受賞。

    京都大学名誉教授

    中西輝政

    なかにし・てるまさ

    昭和22年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院修了。京都大学助手、三重大学助教授、米国スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学教授を経て、京都大学大学院教授。平成24年退官。専攻は国際政治学、国際関係史、文明史。著書に『国民の覚悟』『賢国への道』(共に致知出版社)『大英帝国衰亡史』(PHP研究所)『アメリカ外交の魂』(文藝春秋)『帝国としての中国』(東洋経済新報社)等多数。近刊に『シリーズ日本人のための文明学2 外交と歴史から見る中国』(ウェッジ)。

    父親に躾けられた武士道精神

    中西 藤原先生、ご無沙汰しております。お変わりなく何よりです。

    藤原 いや中西先生こそ。久々にお会いしてお話しができるのを楽しみにしてきました。

    中西 きょうの対談は明治の先達がテーマなのですが、私は歴史を捉える場合、歴史を大きくつかむことが大事だと考えています。歴史には後世に重大な影響を与えたという意味でいくつかのポイントとなる結節点があり、日本が欧米列強の強い圧力にさらされ、大きくまれながらも新しい時代を懸命に模索していった幕末維新は、まさに結節の時代だったと言えるのではないでしょうか。
    そこには同じ激動の時代を生きる現代の私たちが学ぶべき多くの教訓があり、明治という時代やその時代を築いた先達に光を当てる意義はとても大きいと思っているんです。

    藤原 ええ。私もまったく同意見です。明治人の生き方に学ぶことは、日本人が本来の美質を取り戻す上で決して欠かせないというのは私の一貫した主張ですから。

    中西 藤原先生が明治に関心を抱かれたのは、いつ頃のことでしたか?

    藤原 藤原家は江戸時代、諏訪すわ高島藩(現在の長野県諏訪地方)の足軽だったんですね。水戸の浪士が京都に上ろうとするのを下諏訪で迎え撃ってこてんぱんにやっつけたという話などを子供の頃からよく聞かされて育ちました。母方の祖母は明治の生まれなのですが、明治38年1月、日露戦争におけるりょじゅん陥落の日、の山間部の小さな集落でもちょうちん行列が行われ、小学生の祖母も参加したという話などを聞くにつれて、いつしか明治という時代に興味を持つようになったんです。
    父(作家・新田次郎氏)が小学2年生くらいの時、上諏訪で火事が起きて、やはり山間部にいた父は3キロの山道を走って下り、焼け跡から焼けぼっくいを拾って持ち帰ったことがありました。すると、武士のお祖父さんが激怒して「火事場泥棒は泥棒の中でも最も恥ずかしいことだ。絶対にやっちゃいけない。すぐに返してこい」と。それで父は3キロの道を再び下り上って、その焼けぼっくいを戻してきたそうですが、そういう武士道教育を受けて育った父でしたから、私に対してもしつけは厳しかったですね。

    中西 どのような教育を受けられたのですか?

    藤原 例えば、「弱い者いじめは死んでもやってはいけない。弱い者いじめを見て見ぬ振りをすることも許さない。見て見ぬ振りをするとしたら、おまえ自身がきょう者になる」という教えもそうでしたね。ですから私は小学生の頃、貧しい子やハンディを抱える子がいじめられているのを見たら、ただちに相手に飛びかかって殴り倒しました。帰って報告すると、父が「よくやった」って(笑)。
    武士階級の一番下の足軽であっても父は誇りある武士の子です。武士の子供たちは皆、幼少期から『論語』や『孟子もうし』を素読して人としてのあり方を身につけていきました。父をはじめ日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士も、作家の川端康成、谷崎潤一郎も皆、そうやって成長したんです。そういう話を聞く度に明治へのあこがれは強くなりました。

    江戸の文化が明治人の気骨を育んだ

    藤原 中西先生の明治との出合いはどういうものでしたか?

    中西 私の父親は明治44年の生まれで、1歳半で明治から大正に変わったのに、「わしは明治の生まれだ」というのが亡くなるまで自慢の種でした。父親はどちらかというと洋風趣味で、いわゆるモダンボーイでしたが、明治というものに対しては特別な思いを持っていたんです。とりわけ、明治天皇への尊崇そんすうの念はとても深いものがありましたね。
    戦後生まれの私も若い頃、例えば司馬遼太郎の『坂の上の雲』などの文学作品などをきっかけに明治という時代の魅力に取りつかれ、その後、明治は探求のテーマともなっていきました。
    学者になって日本の文明史を研究し気づいたのは、維新後、日本が西洋列強にして近代化を成し遂げ、私の父親のような一般庶民までが死ぬまで自慢するような日本史上の「輝ける時代」になったその土台には、それ以前、つまり江戸時代に育まれた日本文化の大いなる遺産がある、ということでした。
    そこからさらに年齢を重ねて、いまの日本と明治を重ね合わせ、〝経済大国〟などといいながら、もはや手放しでは喜べない体たらくのこの現状を見るにつれて、現代人は明治を「永遠の模範」、自らを映す「時代の鏡」としてしっかりたいしていかなくてはいけない。その上で「日本かくあるべし」という議論を重ねなくてはいけない、という思いを強く持つようになりました。

    藤原 おっしゃるように明治人が近代化を成し遂げたのは、江戸時代の文化の土台があったからであり、優れた日本独自の文化を育む上では鎖国というシステムがとてもよかったんです。
    浄瑠璃じょうるりや歌舞伎、講談、はいかいなどが発達したのは江戸時代ですし、和算に代表される数学もせきたかかずたけたかひろのような大天才が生まれてニュートンよりも早く高度な数学を編み出しました。国学の分野ではもとおりのりながものぶちなどの国学者が登場し、日本精神の本質に迫ったわけですね。
    鎖国時代に育まれたこれら卓越した日本文化が、明治に入って光彩を放つようになったと言えると思います。

    中西 ええ。江戸時代、武士階級は懸命に儒学を身につけつつも、「いや、儒学だけではない。日本には国学もある」と言って日本古来の精神に立ち返りました。また、朱子学だけには飽き足らずに中国では忘れ去られた陽明学を取り入れ、大義に身をていし人々のために命懸けで戦う価値観を身につけていった。
    その精華として、日本が名実共に西洋列強に伍するほどの力をつけ、その頂点を画したのが日露戦争だった、と私は思います。これは単に大国ロシアに勝ったということではありません。江戸時代に日本人の精神のとうによって育まれた、全国民が全く自発的な愛国心に燃え、一体となって維新以来の目覚ましい近代化を成し遂げ、その結果として、あの世界史に残る戦いを繰り広げたということに意味があると思います。

    藤原 その通りですね。

    中西 また、江戸時代は幕藩体制が敷かれ、諸大名はお互いに自立してせったくしながら均衡を保っていました。考えてみたら、これは西洋的国際秩序であるウエストファリア体制(1648年のウェストファリア条約によって確立された主権国家が並立する近代的な国際関係の枠組み)と同じ構図なんですね。幕末・明治の日本人にとって近代的な国際秩序にむことはさほど難しいことではなかったのです。
    19世紀、多くの国がひしめき合って時に角を突き合わせ、時に手を結んだりする国際秩序を明治期の日本人が戦国時代からの経験でいち早く理解し、生き残る術を身につけたからこそ、中華意識に浸っていた清国やその属国に甘んじていた朝鮮よりもずっとスムーズに近代化に取り組み、国運を切り開くことができたわけです。国際政治を専門にする私の立場から見ても、このことの意義は極めて大きいのですよ。