2016年10月号
特集
人生の要訣
対談
  • 京都大学iPS細胞研究所所長山中伸弥
  • スヴェンソン会長兒玉圭司

人生を
成功に導くもの

2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏、54歳。再生医療を可能にするiPS細胞を世界で初めて発見し、その実用化は目前にまで迫っている。一方、ウィッグメーカー・スヴェンソンの経営トップとして、顧客リピート率95.7%という驚異の満足度を成し遂げた兒玉圭司氏、81歳。かつて日本卓球界の全盛期を牽引し、代表監督として計17個の金メダルをもたらした異色の経歴の持ち主だ。ともにそれぞれの道を極めてこられたお2人が語り合う「人生の要訣」とは──。

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この対談は2016年7月5日、京都大学iPS細胞研究所で行われた。

謙虚で思いやり溢れる人柄に感動した

山中 兒玉会長、ご無沙汰しております。暑さ厳しい中、わざわざ東京から研究所までご足労いただきまして、ありがとうございます。きょうの日をとても楽しみにしておりました。

兒玉 私も大変尊敬している山中先生と、長年愛読させていただいている『致知』で、こうして対談できることを幸せに思います。
それにしても初めてお目にかかった時の感動はいまも忘れられません。2014年7月10日、大阪にある北野病院主催の「KITANO FORUM」というシンポジウムで山中先生が講演をなさった。北野病院病院長の藤井信吾先生は国際婦人科癌学会の会長でもありまして。我が社はハートプロジェクトという事業を通じて、女性のがん患者さんが治療を続けながら心豊かな毎日を送れるよう、ニット帽や化粧品などの商品を開発し、その売り上げの一部を国際婦人科癌学会に寄付させていただいています。そういう関係で親交があり、ありがたいことに東京からは私たち夫婦だけをシンポジウムにお呼びいただいたんです。
家内と一緒に山中先生のお話を聴かせていただいて、もう何と言っても「VW」の話にいたく感銘を受けました。物事を究めるには医科学の世界も我われスポーツの世界も同じなんだなと。その後、私はぜひ1対1でお会いしたいと思いまして、居ても立っても居られなくなった(笑)。それであらゆるコネを駆使したんですが、全部ダメで……。
相手は世界のノーベル賞受賞者ですから無理もないと思いつつ、ただ、私は諦めない質なものですから、iPS細胞研究所に直接お電話をさせていただいたところ、とんとん拍子で事は運んで、面会の機会を得ることができました。

山中 実は私の友人の奥さんが進行がんを患っていましてね。抗がん剤治療で髪の毛が抜けてしまうことにものすごく悩んでおられた。その時、偶然スヴェンソンのウィッグと出逢い、そこからガラッと明るく前向きな気持ちに変わられたんです。そういうことでスヴェンソンの取り組みは存じ上げていましたので、その会社のトップの方に私もぜひお目にかかりたいと思いました。

兒玉 あの時は、当初の面会予定時間を超過して、大いに盛り上がりましたね。

山中 そうですね。驚いたのは、兒玉会長がお若い頃、卓球の日本代表の選手をされていて、その後日本代表の監督としても素晴らしい実績を上げられていたと。私もスポーツは大好きですので、とても興味深くお話を聴かせていただきました。

兒玉 きょうはシンポジウムで初めてお会いした時に家内と3人で撮った写真を持ってきたんです。私はこの時の山中先生のお姿に、もう本当に感動しました。
私の家内はパーキンソン病を患っていて車椅子生活なのですが、山中先生は見ず知らずの私どもが写真撮影をお願いしたら、快く応じてくださったばかりか、ご覧のように膝を折られて、目線を合わせていただいたんですね。この何気ない仕草に、山中先生のお人柄が実によく表れていると思います。
ノーベル賞を受賞され、誰もが憧れるような成功を手にされた方なのに、ものすごく謙虚で思いやりに溢れている。名声を得たり有名になったりすると、つい鼻が高くなって人を見下したりする人も多い中で、態度が全く変わらないことに大変感銘しました。

山中 いやいや、恐縮です。iPS細胞という技術の実用化はまだ道半ばで、まさにいま成功を目指して努力している最中だと考えています。

京都大学iPS細胞研究所所長

山中伸弥

やまなか・しんや

昭和37年大阪府生まれ。62年神戸大学医学部卒業後、整形外科医を経て、研究の道に進む。平成5年大阪市立大学大学院医学研究科修了。アメリカ留学後、大阪市立大学医学部助手、奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター助教授及び教授、京都大学再生医科学研究所教授などを歴任し、22年より現職。アルバート・ラスカー基礎医学研究賞、ウルフ賞、ノーベル生理学・医学賞受賞。

iPS細胞の実用化はここからが本当の勝負

兒玉 一方、ノーベル賞を受賞されていろいろな変化もあったかと思いますけど、いかがですか?

山中 ノーベル賞というのはもちろん非常に大きな出来事だったのですが、科学者としての私の人生において一番変化したのは、いまから10年前なんですね。
2006年にマウスから、その翌年には人間の皮膚細胞から、それぞれ世界で初めてiPS細胞の作製に成功しました。それ以前は一研究者だったのが、iPS細胞によってメディアの方から取材を受けたり、いまや400人以上が所属する研究所という組織を経営したり、難病の患者さんやそのご家族にお会いするようになりました。そこが一番の転機です。

兒玉 私も監督時代、金メダルを取って帰国したら、メディアや周りの方々の対応がまるで変わって驚きました。

山中 以前は近くの三条や祇園辺りをふらふら歩いていましたが、ノーベル賞を受賞した後はそれができなくなりました(笑)。
それは冗談ですが、ノーベル賞を受賞したことによって、難病の方だけではなく、世界中の一般の方に知っていただけたことは大きかったですね。以前からもちろんiPS細胞という技術を医療に応用したいと思ってやっていたんですが、やはりノーベル賞をいただいたことによって、その責任やプレッシャーの重みというものをすごく感じるようになりました。
でも、その分、応援してくださる方も増えましたので、何事もそうですが、いい面と大変な面と両方があって、平均したら同じかなと思っています。

兒玉 皆さん関心を持たれていると思いますけど、iPS細胞の実用化の動きは、どのくらい進展しているのですか。

山中 2013年より理化学研究所の高橋政代先生らを中心として、失明に繋がる難病である加齢黄斑変性の患者さんを対象にした臨床研究が実施されています。1例目は、患者さん由来の自家iPS細胞をもとに網膜色素上皮シートを作製し、移植手術を行いました。これはiPS細胞から作製した組織を用いた手術として、世界初の快挙でした。
そして、いま新たに計画している臨床研究は、他人の細胞で作製したiPS細胞から網膜色素上皮細胞を作製して移植する、というものです。

兒玉 では、順調に進んでいらっしゃると。

山中 はい。ただ、実用化に向けてはアメリカとの熾烈な競争が続いていまして、まさにいまが胸突き八丁ですね。手の届くところまで来ているけれども、いまが一番しんどい。ですから、決してここで停滞してはいけないし、ここからが本当の勝負だと思っています。
この勝負は長期戦ですが、いま研究所の教職員のうち9割が数年単位の非正規雇用であり、大問題だと考えています。これは研究所の財源のほとんどが期限つきであるからなのですが、それを補う財源として「iPS細胞研究基金」を設置しました。私もマラソンを走ったりしてPRし、広く一般の皆様からのご寄付を募っています。

スヴェンソン会長

兒玉圭司

こだま・けいじ

昭和10年東京生まれ。31年第23回世界卓球選手権大会に出場し、シングルスベスト16。33年明治大学卒業後、兄と共にエレベーターメーカーのダイコーを創業。その傍ら、世界卓球選手権大会などで日本代表選手団監督を務め、累計で金17個、銀13個、銅24個のメダルをもたらす。60年スヴェンソンを設立し、同社社長に就任。平成27年より現職。著書に『強い自分をつくる法』(東洋経済新報社)がある。