2019年5月号
特集
枠を破る
対談
  • (左)ウシオ電機会長牛尾治朗
  • (右)オリエンタルランド会長加賀見俊夫

経営の枠を破る

浦安の海に、世界中から人々の集まる夢のテーマパークが誕生することを、誰が想像し得ただろうか。東京ディズニーリゾートの創設から携わり、日本を代表する行楽地に育て上げてきた加賀見俊夫氏と、一企業の枠を超え、日本経済の改革に人生を投じてきた牛尾治朗氏に、各々の奮闘を交えながら、経営の枠を破り、成長を実現する道について語り合っていただいた。

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ナンバーワンよりオンリーワン

牛尾 加賀見さんの率いる東京ディズニーリゾートは、去年開業35周年の節目を迎えられてますますにぎわいを見せていますね。ここまで成功を収めたテーマパークは他にないでしょう。これまでの日本のレジャー産業の枠を見事に破ってこられました。

加賀見 おかげさまで、リゾートの中心となる東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを合わせますと、年間3,000万人以上もの方々にご来園いただくまでになりました。当初は、あんなものをつくったって絶対に成功しないと散々言われていましたから、非常に感慨深いものがあります。

牛尾 東京駅を利用する度に、東京ディズニーリゾート行きのバスを待つ中国の方々をよく見かけますが、最近は海外からの来園者も増えているのではありませんか。

加賀見 そうですね。以前は全体の3%前後でしたが、この頃は10%、年間約300万人の方に海外から来園いただいています。この傾向は今後もますます続きそうです。

牛尾 ディズニーランドはよその国にもできているのに、お客さんはわざわざ東京へやって来るのですね。

加賀見 そうなんです。例えば中国からお越しになる方は、香港ホンコンにディズニーランドができた後のほうが増えているんですよ。

牛尾 東京はきっと何かが違うんでしょうね。

加賀見 規模で比べたら、東京はフロリダや上海シャンハイには到底かないません。そういう中で私どもが言い続けてきたのは、オンリーワンになろうということでした。東京で初めて体験できるものをつくろうと。
ナンバーワンを目指せば、どうしても焦って目先ばかり追いかけることになります。それよりも常に5年先、10年先を見据えてオンリーワンで行こうと考えて運営してまいりました。そうすれば、どこにディズニーランドができても生き残っていけるんじゃないかと。
その点では、日本の優れた技術にはとても助けられています。以前はパレードの演出に白色電球を点滅させるだけだったんですが、いまはLEDのおかげで様々な色彩を施し、色の変化を楽しんでいただけるようになりました。それから、シンデレラ城のプロジェクションマッピングも大変好評です。お城ですから普通の壁と違って凹凸がすごいんですけど、新しい技術によってそこに様々な映像を自在に投影して、皆さんに喜んでいただいています。

ウシオ電機会長

牛尾治朗

うしお・じろう

昭和6年兵庫県生まれ。28年東京大学法学部卒業、東京銀行入行。31年カリフォルニア大学政治学大学院留学。39年ウシオ電機設立、社長に就任。54年会長。平成7年経済同友会代表幹事。12年DDI(現・KDDI)会長。13年内閣府経済財政諮問会議議員。著書に『わが人生に刻む30の言葉』『わが経営に刻む言葉』『人生と経営のヒント』(いずれも致知出版社)がある。

与えられた仕事でベストを尽くす

牛尾 加賀見さんとのお付き合いも、もう20年になりますね。私が経済同友会の代表幹事を務めていた時に、加賀見さんが代表幹事をなさっていた千葉県経済同友会からご依頼をいただいて講演に伺ったのがご縁の始まりですが、あの時に加賀見さんがなさったスピーチには大変感銘を受けました。

加賀見 お恥ずかしい(笑)。

牛尾 それでぜひとも東京で力を貸していただきたいと思い、経済同友会の副代表幹事になっていただき、その後も日本生産性本部や、政府の観光立国推進戦略会議で力を発揮していただきました。

加賀見 こちらこそ、大変貴重な機会をいただきました。牛尾さんと一緒に活動させていただいて感銘を受けるのは、ご自分のお考えを常に明確に持っておられて、それを積極的に発信していらっしゃることです。たとえ世の中の大勢を占めなくても、ご自分が正しいと思うことは決して曲げずに貫いていかれる姿勢にはいつも感服しています。

牛尾 貫くということで言えば、加賀見さんの人生はディズニーの考え方で見事に貫かれていますね。社規に沿って行動するのとはまったく違う次元でディズニーの仕事と向き合っていらっしゃる。

加賀見 会社の定款かんていをつくるところから関わっていますからね。会社の歴史イコール私の歴史なんです(笑)。

牛尾 きょうはせっかくの機会ですから、私が聞き手になってそのあたりの経緯を伺っていきたいと思います。

加賀見 私の実家は父が鍛造所たんぞうじょを経営していて、男は事業をやって一人前という気風がありましたから、最初はあまり会社に入る意識はありませんでした。父も兄と私に事業を継がせるつもりでしたが、先輩から兄弟経営でうまくいくわけがないと猛反対されて、急遽きゅうきょ就職先を探し始めたんです。のんびり構えていたので、求人は既にほとんどなかったのですが、たまたま京成電鉄がまだ募集をしていましてね。地元でよく利用して親近感もあったので応募したんです。
そうしたら、最後の面接で当時専務で後の社長の川﨑千春ちはるから「君は、為替かわせ手形と約束手形の違いが分かるか?」と聞かれたんです。私は法学部でしたし、在学中は應援指導部の活動に入れ込んでほとんど勉強をしていませんでしたから、そんなの分かりっこありません。正直に「分かりません」と答えたら、ニヤッと笑うんですよ(笑)。まさか採用されるとは思いませんでしたが、それによって私の人生の方向が決まったわけです。

牛尾 恐らく加賀見さんの正直なところが気に入られたのでしょう。

加賀見 さらに驚いたのが配属先でした。もともと数字が大嫌いで、高校時代も理数系の科目を選択しなかった私が経理ですよ(笑)。
けれども、経理は会社の基本だ。これが分からなければ将来何もできないぞと言われて頭を切り換えましてね。やる以上はその道のベテランになりたいと考えて、月水金の週三日、仕事が終わると簿記学校に通って勉強しました。おかげで数字を通して会社全体を見られるようになったことは、後に経営に携わるようになってから本当に大きな武器になりました。
また、そういう理論武装ができたことで、東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランドという会社を立ち上げる際に、その定款づくりを命じられたわけです。経理に配属されたことを、いまではとても感謝しています。

牛尾 オリエンタルランドの定款づくりを手掛けられたのは、おいくつの頃ですか。

加賀見 24、25歳の頃でした。

牛尾 大変な抜擢ばってきですね。

加賀見 ただ、当時はまだ実体のないペーパーカンパニーでしたから、京成電鉄の事務所の片隅に机が3つ並べてあるだけで、電話もないんです。周囲からは、あんな会社をつくったって成功するはずがないと言われていましたし、同期の仲間にも、あいつは飛ばされたと揶揄やゆする者もいました。それでも私は経理に配属された時と同じように、与えられた仕事でベストを尽くして、その道のベテランになりたいと考えて、定款づくりに打ち込んだものです。

オリエンタルランド会長

加賀見俊夫

かがみ・としお

昭和11年東京生まれ。33年慶應義塾大学法学部卒業、京成電鉄に入社。47年京成電鉄を依願退職し、オリエンタルランドに改めて入社。56年取締役総務部長兼人事部長。その後常務、専務、副社長を経て、平成7年社長に就任。17年会長兼CEO。著書に『海を超える想像力』(講談社)がある。