2024年8月号
特集
さらに前進
対談
  • みらい予想図理事長山﨑理恵
  • 日本こども支援協会代表理事岩朝しのぶ

愛の力が人生の試練を
乗り越えさせてくれた

支援が必要な子どもたちの幸せのために、日々全力で走り続けている女性がいる。お一人は、高知市で自ら重複障碍児を育てながらNPO法人「みらい予想図」を設立、同じ環境にある家族に手を差し伸べる山崎理恵さん。もうお一人は増え続ける児童虐待や育児放棄を何とかしたいという一念から認定NPO法人「日本こども支援協会」を立ち上げ、里親制度の啓発活動を続ける岩朝しのぶさんである。これまで多くの逆境を乗り越えながら前進を続けてきたお二人の歩みからは、真実の愛の力が、立ちはだかる人生の壁を乗り越えさせることを教えられる。

この記事は約26分でお読みいただけます

子どもたちの幸せを願って

山﨑 初めまして。岩朝いわささんとお話しできるのを楽しみに高知から大阪にまいりました。大きな病気を乗り越えて、いまは家庭環境に恵まれない子どもたちのための里親制度の普及や虐待の防止に日々ほんそうされている。本当にすごいと。きょうはお会いできて光栄です。

岩朝 私も山﨑さんの人生を知ってとても感動しました。重度のしょうがい児として生まれたちゃんを愛情深く育ててこられたお姿に、子どもの頃、長い長い入院生活を送っていた私を支えてくれた母の姿が重なったんです。
サイトで拝見したところ、山﨑さんが理事長を務められる「みらい予想図」という重症児のためのNPO法人は今年(2024年)で8年目を迎えられるようですね。

山﨑 はい。「どんなに重い障碍があっても、皆に役割がある」という信念から、2017年「みらい予想図」を設立し、重症児のデイサービス事業をスタートさせました。この4月には3つ目となる事業所を開設したばかりなんです。
100件くらい当たってやっと見つかった3階建ての物件をリフォームしましてね。1階は重症児のデイサービスをそのままスライドさせ、2階部分では念願だった18歳以上を対象としたデイサービスを始めました。3階部分にはヘルパーステーションを設けて、医療的ケアが必要な人のためにホームヘルパーを派遣できるようにしたんです。法人全体で看護師さん、ヘルパーさん、保育士さん、介護士さんなど40名弱の方が働いてくださっています。
8年前に法人を立ち上げた時は、何も分からない主婦が無謀なことをやっている、と散々反対されました。そんな私がここまでやり続けてこられたのが、自分でも不思議なくらいです。

岩朝 私も2010年に任意団体として日本こども支援協会を立ち上げましたけど(2015年に法人化)、設立の時よりも物事が深く、広く見えるようになったと感じているんです。経験を積むほど「次の一手は何だろう」と広い視点でとらえられるようになったのかなと。山﨑さんもそうではありませんか。

山﨑 本当にその通りです。とりわけ利用者さんからの学びが大きくて、やはり何事も謙虚に学ばせていただくという姿勢がないと私たちの成長はないということを最近すごく感じますね。

岩朝 看護を受ける側からすると、病院にいて医療者の都合で時間が流れていくというのはニーズじゃないんですよ。私もつい最近入院して手術をしたばかりなんですけど、確かに医療が進歩しているのはよく分かる。だけど、業務は滞りなく流れるのに人間的な関わりが希薄になってきた、大切なものががれてきたという気がしてなりませんでした。

山﨑 確かに新型コロナウイルスのパンデミック以降、それが一層顕著になりましたね。

岩朝 少しそのこととも関連するのですが、いま特に思うのは資本主義経済の大きな流れの中で社会全体が動いているのに、福祉の分野はまったく別の流れで動いているということです。私たちの協会では個人、法人様からいただく寄付をもとに虐待防止や里親制度の普及、里親への支援事業などを続けていますけど、これらの問題は福祉という分野だけで到底解決できるものではないんですね。
いま年間の虐待通告件数は全国で20万件を超えていて、4万2,000人が国で養護されています。家庭のぬくもりがあってこそ子どもたちは立ち直ることができるのに、それを支える里親の数は全く足りていません。児童虐待を本気で食い止めようとしたら、企業など多くの機関との連携はどうしても欠かせないんです。しかもそれは子どもたちだけの問題ではありません。次世代に大きな課題を持ち越さないためにも何とか一日でも早く、一人でも多くの子どもたちを支えたい。そんな思いで活動を続けています。

みらい予想図理事長

山﨑理恵

やまさき・りえ

昭和42年香川県生まれ。高知市内の病院で看護師、ケアマネジャーとして勤務した後、平成17年重度の重複障碍児である音十愛さんを出産。29年特定非営利活動法人みらい予想図を設立し、理事長に就任。

「お母さん、この子には目がありません」

岩朝 山﨑さんの活動を知って共感する部分がとても大きいのですが、どういう経緯で今日に至られたのか。きょうはぜひそのことをお聞きしたいと思っています。

山﨑 看護師だった私の人生を大きく変えたのは2005年、音十愛の誕生でした。上の2人の子は普通に出産したので、音十愛の時も特に気にせず、出産ギリギリまで働き、夜勤もこなしていたんです。いま考えると、胎内での発育が弱く、検診の時、「だんだん羊水が減ってきているから要注意だ」と言われていましたね。
予定日になり羊水がほとんどなくなっていることが分かって緊急入院し、帝王切開することになりました。ところが、生まれても音十愛に会わせてくれないんです。2日目に先生に呼ばれて説明を受けるのですが、そこでいろいろな障碍があることを告げられました。こうしんこうがいれつ、手足にも奇形があると。私は外的奇形は何とかなると冷静に受け止めていました。だけど、最後にこう言われたんです。
「言いにくいけど、お母さん、この子には目がありません」
この言葉を聞いて「先生、嘘でしょ」と叫んでその場で泣き崩れましたね。主人と一緒にどれだけの時間泣き続けたか分かりません。
音十愛は口唇口蓋裂で内臓にも奇形があり、ミルクを飲むことすらできません。半年間は、母子入院し、上2人の子ともなかなか会えない状態でした。6か月過ぎると自宅に帰されるのですが、絶望感がものすごくて何をするにも自信が持てませんでしたね。
でも、上の子がいたおかげで私も否応いやおうなしに外に駆り出される。それがなかったらおそらく家にずっともっていたと思います。

岩朝 そうでしたか。それほどまでに大変な状況を乗り越えてこられたのですね。

山﨑 音十愛を連れて外に出ると近所の子どもたちがワーッと寄ってくるんですよ。見てくれる施設がないので、上の子の遠足や参観日にも音十愛を一緒に連れていきました。見たことのない容姿なので「この子、可哀想かわいそう」「気持ち悪い」とやっぱり言いますよね。その一言一句に傷ついて、クタクタになって家に帰っていました。
でも、そうした毎日を続けるうちに、最初は「気持ち悪い」と言っていた近所の子が「いや、音十愛ちゃん可愛いね」と言い始めるんです。近所の方も「音十愛ちゃん元気になったね」って。そういうことを通して、私は知らないことが怖いんだと学ぶわけです。そこからはあえて外に出すことに専念していくわけですけど、傷つきはずかしめを受けながらも、理解してくださる人を巻き込んでいくことを身を以て経験するんですね。
そして、そういう経験が私を強くしてくれました。音十愛の障碍をまるごと受け入れることができたのは、その頃の経験があるからだと思っています。

岩朝 いろいろなことが通り過ぎたいまだから言えることなのでしょうね。きっと。

山﨑 はい。音十愛が生まれて19年経って、あの時逃げないで体当たりで歩いてきて本当によかったとつくづく思います。だからこそ、いろいろな方に助けられ、そのことが音十愛の成長にもつながっていくわけですから。

岩朝 多くの方が支援されたのですね。

山﨑 ええ。私って不思議にいろいろな人に助けられてここまで来ているんです。最初に母子入院している時に、出勤の度にベッドサイドに来てくれる助産師さんがいらしたんです。その助産師さんが「お母さん、そんなに泣いても、この子すごく育っているよ」「強いよ」と声をかけてくださった。そしてある時、「その悲しいことに順番をつけましょう。何が一番つらい?」と。この言葉が私がスタートを切れたきっかけでした。
私は「目の見えない子をどう育てていったらいいか。経験がないので本当に分からないです」と話したのですが、そのひと言でソーシャルワーカーさんや病院の方が動いてくださって、退院後に相談に行く機関に繋げてくださいました。そこで出会った大学の先生を通して、今度は盲学校の早期教育相談に繋がるんです。「何としてもこの子を育てよう」と前向きになれたのはそこからですね。

日本こども支援協会代表理事

岩朝しのぶ

いわさ・しのぶ

昭和48年宮城県生まれ。企業経営を経て、平成22年特定非営利活動法人日本こども支援協会設立。自身も里親として女児を養育する傍ら、児童養育施設や里親の支援を通じて、社会養護の現状や里親制度の啓発に取り組む。