2023年9月号
特集
時代を拓く
対談
  • スピードスケート選手丸茂伊一
  • ジャパンポンポン代表滝野文恵

九十路、我らなお
人生に挑まん

94歳にして現役スピードスケート選手であり、世界最高齢のスピードスケーターとしてギネス認定もされている丸茂伊一さん。64歳の時にシニアのチアリーダーチームを立ち上げ、91歳のいまも約30名のチームの代表として舞台に立ち続ける滝野文恵さん。生気溌剌と挑戦を続けるお二人に、90代という老年の時代をどう拓くか、縦横に語り合っていただいた。

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共に90代元気の秘訣とは

滝野 初めまして、まるさん。きょうはご自宅にお邪魔させていただき、ありがとうございます。

丸茂 こちらこそ、長野県市という片田舎に、ようこそはるばるいらっしゃいました。

滝野 私はいま横浜に住んでおりますが、両親が長野の木曽の生まれで戦時中は長野に疎開していたこともあるので、長野には思い入れがあるんです。

丸茂 そうでしたか。それにしても、私より3つばかりお若いとは言え、お元気でお綺麗でいらっしゃいますね。現役でチアリーダーをされているたまものでしょうか。

滝野 いまも週に一度、3時間ほど約30名の仲間と共に練習をしています。目下は7月17日に開催される「第22回東京都障害者ダンス大会ドレミファダンスコンサート」への出場に向け、最終調整を行っているところです。
丸茂さんも現役のスピードスケートの選手と伺いました。

丸茂 ありがたいことに今年(2023年)1月に青森で開かれた競技会に93歳と282日で出場し、世界最高齢のスピードスケーターとして私が持っていたギネス記録を更新させていただきました。といっても、私の場合は同世代の選手があまりいないため、失格をせず500メートルと1,000メートルを滑り切れれば、それぞれの記録を更新できるというありがたい環境にいるのですが(笑)。
元気の秘訣と言えば、私は趣味で短歌にも興じていて、『ヒムロ』という短歌雑誌の編集発行人も務めているものですから、とにかくさまと会って話をすることですね。いまでもうんと気をつけながら自分で車を運転して、行きたいところに行っている。そういう連続の毎日だもんで、忙しくてあの世に行こうにもまだ行けません。

滝野 いまも運転ができるというのはすごいことですね。
私の若さの秘訣はDNA(笑)。毎朝6時半からのラジオ体操や週1回のチアリーダーの練習以外、運動や歩くことは好きではありませんし、食事も特段意識していません。だから最近はDNAだと思うようにして(笑)。父がすごく元気な人だったので、その血を受け継いだのだと思います。
それから、皆さんが私のことを元気だ元気だって言うし、私に会ったら元気をもらったなんて言うものだから、元気でいないといけない気がして、半分は思い込みかもしれません(笑)。

スピードスケート選手

丸茂伊一

まるも・いいち

昭和4年長野県生まれ。旧制中学を卒業後、陸軍特別幹部候補生となり、15歳の時に終戦を迎える。復員後は実家に戻り農業に従事。45年NHK全国優秀農業(現・日本農業賞)に選ばれ、農林大臣賞を受賞。同年秋には第9回農業祭において天皇杯を受ける。62年から3期にわたり地元茅野市の市議会議員を務めた。趣味で続けていたスケートは85歳から全国大会に出場するようになり、令和5年には最高齢のスピードスケート選手としてギネス記録に登録されるなど、数々の記録を打ち立てている。

人生の土台を築いた出来事

丸茂 私は初めてお会いする方から「こんな小柄な方だと思っていなかった」とびっくりされることが多いので、事前に自らお伝えするんですけど、この通り私は背が低いでしょう?(笑) 昔から小さくてね。旧制中学3年生の頃に軍隊に入りたいと思って、親父のたんから印鑑を黙って借りてきて役所に志願書を出したら、身長が2センチばかり足りなくて入隊できなかった。
でも健康診断で身長を測る人たちは頭ばかり見て足下を見ていない。それで翌年、背伸びをして何とか合格することができたんです(笑)。昭和20年4月、戦争がたけなわで、旧制中学が5年から4年に短縮されたので、15歳で卒業してそのまま陸軍特別幹部候補生として入隊しました。
この戦争経験は、やっぱり私の人生を大きく変えましたね。農家だからご馳走はなくとも食べるものだけはありましたが、入隊すると乏しい食料で訓練に明け暮れる日々が始まりました。ふた月ほど航空通信兵として教育を受け、トーツーツーと無線機を使ったモールス信号を覚えてね。あの頃は毎日空襲に遭っていた。それで屋根を全部取っ払って、疎開をして軍隊がそこにいないように見せかけ、たこつぼごうに一人ずつ隠れて戦闘機P-51が低空飛行していくのを毎日のようにただ眺めていた。
弾を撃てば当たりそうな距離だけど、隠れているのがバレるから撃つわけにはいかない……。当時の若いのは皆、命をして戦うのが当然だと考えていて、私も特攻へ志願しましたが、結局出陣より前に16歳で終戦を迎えました。
そんな体験があったから、あの頃受けた教育は自分の人生に深く根づいています。軍隊が良かった、悪かったは別として、苦しい、つらい、貧しいといった、人が生きている間で起こり得るあらゆる困難をすべて体験したから、忍耐力がついたし、はらわりました。

滝野 戦時中の厳しい環境で身を鍛えられたのですね。私は丸茂さんと3歳しか年が離れていませんが、10代にとっての3つは大きいのでしょうか。終戦時私は13歳でしたけど、あまり終戦というのにピンと来ていませんでした。
父1人を大阪に残して家族で長野の善光寺の近くに疎開し、私は女学生でしたが勉学せずに小さな工場で戦闘機の部品づくりに従事していたんです。
私の父はシンガポールで貿易の仕事を手伝っていたので英語が堪能で、帰国後貿易の事業を立ち上げ、のちに写真現像機のメーカーとして事業を拡大しました。大阪の大空襲で自宅兼職場があったビルが全焼してしまうのですが、それをものともせず、終戦の翌日から家族が止めるのを無視して進駐軍を相手に商売を再開しました。
父がかなり先鋭的な考えの持ち主だったおかげで、当時女性は下手に大学に進学したら婚期をいっすると言われていた中で、きちんと修学するよう懇願され、嫌々専門学校に進学しました。そこで乗馬の楽しさに目覚めてしまって、馬場に関西学院大学の学生が練習に来ているのを見て、関西学院大学に編入し、乗馬部に所属しました。女子学生は1人でしたけど(笑)。
大学卒業後は、「これからは女も自立しなくてはいけない」と言って、父が1年間アメリカ留学をさせてくれました。

丸茂 戦後10年経っていない頃に女性が1人で海外留学というのは、かなり珍しかったでしょうね。

滝野 そうかもしれません。それから私の人格のベースと言えば、父以外に専門学校時代の先生から「本当に望んだことは必ず叶う」と教えられたことにもあります。これは本当にそうだなと実感します。それに「ダメでもともと」という言葉も教えられて、何も失うものがない、ダメでもともとだと思って果敢に挑戦することが私のモットーになりました。
帰国後は知り合いだった人と25歳で結婚し、娘と息子を授かり、専業主婦として育児や家事に従事してきました。

ジャパンポンポン代表

滝野文恵

たきの・ふみえ

昭和7年広島県生まれ。関西学院大学卒業後、1年間アメリカ留学。25歳で結婚、1男1女を授かる。53歳の時にアメリカノーステキサス大学で老年学修士号を取得。帰国後、アメリカにシニアチアリーダーチームがあると知り、平成8年63歳で「ジャパンポンポン」を設立。91歳の現在も現役で踊り続けている。著書に『女53歳からのアメリカ留学』(ミネルヴァ書房)『85歳のチアリーダー』(扶桑社)など。