2025年11月号
特集
名を成すは毎に窮苦の日にあり
対談
  • 久原本家グループ本社社長河邉哲司
  • 鈴懸社長中岡生公

苦難は事業の基なり

素材のよさを引き出した調味料・食品ブランド「茅乃舎」で知られる久原本家グループ、行列が絶えない和菓子店として有名な鈴懸。いずれも福岡を拠点に、全国に多くのフアンを持つ優良企業である。共に100年以上の歴史を誇る老舗だが、河邉哲司氏、中岡生公氏が家業に入った頃は、経営に全く明るさが見出せない状況だった。お二人は厳しい環境の中で、どのように道を切り拓いてきたのか。その努力の道のりから学ぶべきことは多い。

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    切磋琢磨する福岡の有名企業

    中岡 河邉さんは青年会議所時代からの大先輩でいらして、いまもロータリークラブの例会などでお会いしている親しい間柄ですから、改めて対談となるとどことなく面映おもはゆいというか(笑)。

    河邉 確かにね(笑)。だけど、私は中岡さんと接していてとても教えられることが多いんです。年齢的には私が10歳以上上ですが、中岡さんがやっているビジネスモデルは、私が目指そうとしている理想のビジネスの姿ととても近い。
    それに、福岡という地方の一企業のブランドを引っげて東京に進出し、全国的な認知度を高めてきたところや、四代目、三代目という立場から新しい道を開拓してきたという似たような点もあります。そういうことから私は中岡さんを非常にリスペクトしているわけです。

    中岡 ありがとうございます。大変もったいないお言葉を頂戴しましたが、私こそ河邉さんを尊敬しているんです。我々が23年前に東京に出ていくことができたのも、河邉さんが先に道をひらいてくださっていたおかげですから。東京に進出したばかりの頃は厳しいご意見もいただいたものですが、そういう時は特に河邉さんの存在は大きな力になりましたね。

    河邉 鈴懸すずかけさんは和菓子、私どもはダシに明太子めんたいこと、業種がまったく違うことも切磋琢磨せっさたくまというか、楽しく刺激し合える要因でしょうね。だから、鈴懸さんが店を出したと聞くと楽しみに見に行きましたよ。「どんな店づくりの工夫を、今度はしよるんやろうか」と。

    中岡 それはお互い様ですよ。
    そういえば、ばらほんさんは数年前から北海道での事業に力を入れられているようですね。

    河邉 そうですね。我々は上質な素材を厳選してつくったダシなどを取り扱う「茅乃舎かやのや」を現在全国に32店舗展開し、11月には銀座に出店を予定しています。ブランドというものを強く引き出しながら他社との差別化を図ってきたわけですが、店舗展開もいずれは限界が来ます。
    そこで、長年お世話になってきた北海道への恩返しの思いを込めて、北海道の素材で北海道のブランドをつくるという取り組みをスタートさせました。一つの柱は流通ブランドの「北海道くばら」、2つ目の柱はDtoCブランドの「北海道食品庫」です。
    北海道にはまだまだ知られていない、埋もれた素晴らしい素材がありますからね。うすや利尻や函館の昆布は有名ですが、例えば函館の誰々さん生産のこだわりの昆布というものを見つけて、表に出して差し上げることでより価値が高まります。

    中岡 ええ。その地域の誰々というところまで見極めてこそ、本物の素材がお客様に提供できる。それは私も全く同感ですし、その姿勢を今日まで貫いてきました。

    久原本家グループ本社社長

    河邉哲司

    かわべ・てつじ

    昭和30年福岡県生まれ。福岡大学商学部卒業後、家業の久原調味料入社。四代目社主を継いでからはタレや調味料のOEM事業に着手。平成2年には明太子で初の自社ブランド「椒房庵」を立ち上げる。17年、自然食レストラン御料理茅乃舎を開業。その後、ブランド「茅乃舎」を立ち上げ店舗展開を図る一方、令和元年に久原本家北海道を設立するなど北海道での事業にも力を入れる。

    昔ながらの和菓子をいまに再現

    河邉 鈴懸さんも数量限定ながら、常に理想の和菓子を追い求めてこられましたね。どの店も行列ができるほどの大変な人気です。

    中岡 いま福岡に5店舗、東京に3店舗を出しています。正直、いまも百貨店さんをはじめ多くの出店要請をいただいてもおりますが、一つひとつ職人が手づくりする商品ですから、多店舗展開しづらいんです。
    私は創業102年になる福岡の老舗和菓子屋の三代目ですが、最初は大阪の夫婦でやっている小さな和菓子店で修業して、24歳で実家に戻りました。当時は4店舗を構え、従業員は14、5人でしたでしょうか。実家に戻って大福を口にしてみた時、「おやっ」と思ったんですね。自分が小さい頃に食べていた味とは明らかに違う。「こんな味だったっけ?」と当時の職人長に聞いてみると、餅に砂糖を加えたため、味が変わってしまったということが分かりました。
    時代的に、土産品としてのお菓子を多くつくる必要があり、日持ちをさせるために、餅に砂糖を加えて計画生産していたことが原因だったようです。私の父も職人長も、店舗を経営するためとはいえ、日持ちさせるために余計な砂糖を加えたりは、本当はしたくなかったはずなんです。
    そこで、日持ちを一番に考えるのではなく、食べた時に「本当においしい!」とお客様に喜ばれるお菓子づくりをしたいという一心で、職人長には鈴懸の仕事と兼任してもらって、鈴懸と違う業態で店を出すことにしたんです。父も、何も言わず受け入れてくれました。

    河邉 大きな決断をされたのですね。

    中岡 実はその頃会社の業績が悪くて、倒れかけた時期でもありました。だからというか、逆に思い切れて、父も職人長も理想としていた形の商売を、私が始めることができたのかもしれませんね。
    そんなわけで、1998年に福岡市の中心部にある百貨店・岩田屋に「りん」という店を私と職人長の2人だけで構えさせてもらいました。商品は厳選した8品だけとし、その中にはいまも定番となっている鈴乃すずのえんもちや鈴乃最中もなかもありました。そのお菓子はすべて、日持ちを優先して考えるのではなく、朝つくったものを買ったその日においしく食べていただく朝生菓子のみです。
    その頃の主流は日持ちがするお菓子がほとんどでしたから、お客様から「大福が固くなった」というたぐいのクレームをいただくこともありました。自分で店に立って販売していましたから、「何も加えていないお餅ですので、時間が経つと固くなってしまうんです」とお伝えしながら、「固くなった大福は焼いていただくと、またおいしく召し上がれますよ」なんて食べ方もご提案したり。そのかたわら「鈴懸の大福なら、アレルギー持ちのうちの子も安心して食べられる」という嬉しい声もいただくようになりました。
    おかげさまで売り上げは伸びて、3年ほどで会社の業績が回復するまでになりました。現在の東京と福岡で展開しているすべての鈴懸は、「鈴」でやってきたことを続けているだけです。いまでも東京の店舗では福岡から派遣した職人がその場で菓子を手づくりし、工房で使うあんや材料は毎日、福岡から空輸しています。

    鈴懸社長

    中岡生公

    なかおか・なりまさ

    昭和44年福岡県生まれ。大阪の和菓子店で2年間修業後、家業の鈴懸に入社。平成10年、福岡岩田屋百貨店に「鈴(りん)」開店。14年、伊勢丹新宿店にて「鈴懸新宿伊勢丹店」開店。19年、福岡市博多区上川端町に和菓子を販売する菓舗に、かき氷や和風パフェも楽しめる茶舗を併設した「鈴懸本店」を開店。22年、三代目代表取締役に就任し、現在に至る。