2023年9月号
特集
時代を拓く
インタビュー①
  • 日本電子会長栗原 権右衛門

科学技術立国
日本の前途を照らす

祖業である電子顕微鏡で世界トップシェアを誇り、ノーベル賞の陰の立役者と称される理科学・分析機器メーカー日本電子。しかし営業畑生え抜きの栗原権右衛門氏が社長に就任した時、同社は未曽有の経営難に喘いでいた。歴史ある大企業がいかに変貌を遂げ、日本の科学を牽引しているのか──。栗原氏の経営改革の軌跡に迫った。

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ノーベル賞陰の立役者

——取材に先立ち貴社(本社/東京都昭島あきしま市)の構内を拝見しましたが、さき博士などノーベル賞を受賞された一流の科学者による植樹があり、驚きました。

そちらに飾ってある「知足者富」(足るを知る者は富む)の色紙も、イベルメクチンの開発で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智先生にいただいたものです。ありがたいことに、当社の主なお客様はそうしたノーベル賞受賞者、候補者を含むトップクラスの科学者なんですよ。
まず当社の歴史を簡単に説明しますと、当社は戦後間もない1949年、電子顕微鏡(それまでの光学顕微鏡の100~1,000倍、高精細の像を表示する)を開発する日本電子光学研究所として、元海軍将校のかざけんにより設立されました。
食べるのもやっとの時代になぜ顕微鏡だったかというと、海軍技術研究所のエンジニアも務めた風戸には、日本の敗戦は科学技術の弱さに一因があり、基礎科学の振興なくして日本復興はないとの思いがありました。そして電子顕微鏡の研究者・黒岩大助の著書を読み、これが広まればいままで見えていなかった「極微の世界」が開かれ、良質な材料の開発や様々な学問研究に役立つばかりか、青少年たちに科学する心を持ってもらえるはずだと考えたんです。

——電子顕微鏡、科学技術の持つ可能性にいち早く気づかれた。

そんな「極微の文化の建設」を掲げた彼のもとに、復興に燃える若い技術者10人が集結しました。旧飛行場の廃品鉄材からよい材料を探し、X線装置用電源を応用するなどありあわせの材料を最大限に利用し、ほとんど手づくりで電子顕微鏡第1号機「DA-1」を完成。これが注目される一方、国内は復興途上でしたから、早々に欧米で現地法人をつくって販売を始め、1956年にフランスの原子力研究所に納品することに成功します。
いま国内に工場が3つと支店が9つ、海外に24の法人があるのですが、これがメイドインジャパンのものづくりを貫く原点であり、最初から世界を相手に市場を開拓したこと(Born Global)が成長の基盤になってきたんです。

——しかし、なぜそれほど早く世界で評価を得られたのでしょうか。

それは風戸が確固たる理念、使命感を持っていたからでしょうね。戦後しばらくは日本の大手メーカーも電子顕微鏡を手掛けていたのですが、量販できない小さな市場だからか大半が撤退していきました。一方当社には自分たちがやらねば科学技術立国は支えられないという、「私より公」を重んじる強い使命感があった。ですから、物質の分子構造を原子レベルで解析する核磁気共鳴装置(NMR)のような技術にも参入障壁の高さを逆手に取って挑戦し、1956年に第1号を発売しています。
その創業者のDNAはいまもしっかり受け継がれており、電子顕微鏡の分野では当社と米国の1社が2大メーカーと言われていますが、世界シェアでは我われが首位です。NMRの分野においては、日本のこの分野のほとんどの科学者が当社製品のユーザーと言ってよいほど重宝いただいています。

日本電子会長

栗原 権右衛門

くりはら・ごんえもん

昭和23年茨城県生まれ。46年明治大学商学部卒業後、日本電子入社。取締役メディカル営業本部長、常務取締役、専務取締役を経て平成19年副社長、20年社長。令和元年6月より会長兼最高経営責任者、4年6月より会長兼取締役会議長。