2025年11月号
特集
名を成すは毎に窮苦の日にあり
対談
  • Nextend代表取締役野村忠宏
  • パリ2024オリンピック柔道男子66㎏級金メダリスト阿部一二三

勝利への道は、
努力と
辛苦の日にあり

柔道男子60㎏級で前人未到のオリンピック3連覇の偉業を成し遂げ、現役引退後は自身がプロデュースする柔道教室「野村道場」を開催する等、国内外にて柔道の普及活動に力を尽くしている野村忠宏氏。その野村氏を目標に努力を重ね、東京2020オリンピック、パリ2024オリンピック柔道男子66㎏級で2連覇を果たした阿部一二三氏(パーク24所属)。世界の舞台で厳しい勝負を勝ち抜いてきたお二人が語り合う、辛苦を乗り越え、人生の勝利を掴む要諦とは――。

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    数々の戦いを経て風格ある絶対王者へ

    野村 阿部選手がパリ2024オリンピックで金メダルを獲得してから、ちょうど1年ですね。東京2020オリンピックに続く2連覇達成は本当に誇るべきことですし、何より見事な戦いぶりでした。
    しかも、東京大会がコロナで1年延期になって、パリまで3年しか準備期間がありませんでしたから、選手たちにとってはすごく難しい大会だったと思います。

    阿部 準備に関してはしっかりできたと思います。ただ東京とパリでは気持ちの面で大きな違いがありました。初めてのオリンピックだった東京大会は、自分は挑戦者だから思い切っていこうという感じでした。でもパリ大会では、そんな感情はまったくなく、何が何でも勝ち切らなくてはいけないという緊張感で試合に臨んでいました。
    というのも、パリ大会で負けてしまえば、尊敬する野村さんが達成したオリンピック3連覇はおろか、その先の4連覇の夢が途絶えてしまうからです。この緊張感は相当なものでしたが、その中で勝ち切ることができたのは自分にとって大きな成長となりました。
    また、東京大会で一緒に金メダルを獲得した妹のうたがパリでは先に負けてしまったことで、もうやるしかないと気持ちが吹っ切れたのも大きかったですね。妹が勝つと、それもやはりプレッシャーとして降りかかってきますから。

    野村 あの時は、詩さんが負けて動揺して力が発揮できないのではないかという声も一部ありましたが、その後の試合を見ると、阿部選手はそんなもろい選手じゃないことがすぐに伝わってきました。
    阿部選手と初めてお会いしたのは、阿部選手がまだ高校生の時でしたが、当時から技の切れや力強さ、勢いには目を見張るものがある一方、勝負どころでちょっと弱気になったり、闘い方や技が大雑把なところがあったりしたんです。
    でも、それがオリンピック3連覇、そして四連覇を目標にして経験を重ねていく中でしっかり改善され、特に東京大会でチャンピオンになった時から柔道に自信と風格が出てきたように感じます。
    そしてパリ大会の闘いぶりを見て本当に強くなった、名実共に絶対王者に相応ふさわしい柔道家になったと思いましたね。高校生の頃から阿部選手の成長を見てきた私としては、本当に嬉しい限りです。

    阿部 私も2連覇を達成することができて、野村さんの3連覇のすごさが前よりもよく分かるようになりました。2連覇でもものすごく大変なのに、それからまた4年間、どうやって体、特に気持ちを組み立てていったのだろうと。
    ですから、まだまだ野村さんに教えていただきたいことがたくさんありますし、次の3連覇を目指して、もっと努力しなければいけないと思っているところです。

    Nextend代表取締役

    野村忠宏

    のむら・ただひろ

    昭和49年奈良県生まれ。祖父が設立した豊徳館で3歳から柔道を始める。平成9年天理大学卒業。11年奈良教育大学大学院卒業後、ミキハウスに入社。柔道男子60kg級でアトランタオリンピック、シドニーオリンピック、アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成。平成25年に弘前大学大学院で医学博士号を取得。27年に40歳で現役引退後は、自身がプロデュースする柔道教室「野村道場」を開催する等、国内外にて柔道の普及活動を展開。スポーツキャスターやコメンテーターとしても活動する他、鍼灸接骨院とピラティススタジオを併設したコンディショニングラボ「Nom-Lab.(ノムラボ)」を設立し、ウェルネス事業にも取り組む経営者としても活躍している。

    女の子に投げられた悔しさをバネに

    野村 阿部選手は早くから全国レベルの選手として活躍されていましたが、その強さはどのようにして培われたのですか。

    阿部 私の父は子供の頃から水泳をしていたのですが、体が小さかったこともあり、小・中学時代は勝てても、高校生になると次第に結果が出せなくなったそうです。その経験から、私に何か運動をさせるのであれば、体重別の競技にしようと考えていたんです。
    それで父は私にいろいろなスポーツを見せたり、経験させたりしてくれたのですが、「一二三ひふみ、これ格好いいだろう?」と、テレビで柔道の試合を見せた時の反応が一番よかったらしく、地元の兵庫少年こだま会柔道部に入ることになったんです。2003年、6歳の時のことでした。これが柔道を始めたきっかけになります。
    私も父と同じで体が大きくありませんから、結果的には柔道を選んでよかったと思っています。
    ただ、最初の頃は柔道場に練習に行くのが少し怖かったんです。柔道場には体が大きい子が多くて圧倒されたのかもしれません。

    野村 最初は練習が怖かった。

    阿部 その中で一つ転機になったのは、小学2年生の時に女の子に試合で負けたことでした。ものすごく悔しくて、強くなりたいと本気で思い、父と一緒にトレーニングをするようになったんです。
    父は道場の練習もよく見に来てくれましたし、仕事が休みの日には、ランニングや階段ダッシュなどつきっきりでトレーニングをしてくれました。私が嫌だと言っても、引っ張られるようにトレーニングに連れて行かれました(笑)。
    自分が父親だったら子供に同じことができるかと言われれば、おそらく無理だろうと思います。つきっきりで私を鍛えてくれた父には、本当に感謝しています。

    野村 立派なお父様ですね。そのお父様とのトレーニングの日々が、阿部選手の強さの原点ですね。

    阿部 小学校時代はそこまで結果は出せなかったのですが、中学に上がった頃から練習やトレーニングをすればするほど勝てるようになって、もっと上に行きたい、日本一になりたい、そのためにもっと努力しなければと、柔道漬けの日々を送るようになりました。
    特に2011年、中学2年生の時に全国中学校柔道大会男子55㎏級で優勝できたことは大きくて、いままで投げられなかった相手を投げられるようになる、自分が日に日に強くなっていることを実感し、ますます柔道にのめり込んでいったんです。「自分よりも実力が上の人と練習しないと強くはなれない」と思って、高校に出稽古に行くこともありました。

    野村 現状に満足せず、常に上を目指して努力を続けていった。

    阿部 この頃が自分の柔道における成長期だったと感じています。
    その後、進学した兵庫県の神港学園神港高校でも柔道に没頭して、2014年の全国高等学校柔道選手権大会男子73㎏級や全国高等学校総合体育大会(インターハイ)柔道競技大会男子66㎏級、講道館杯全日本柔道体重別選手権大会66㎏級で優勝するなど、実績を残すことができました。

    パリ2024オリンピック柔道男子66㎏級金メダリスト

    阿部一二三

    あべ・ひふみ

    平成9年兵庫県生まれ。6歳の時に地元の兵庫少年こだま会柔道部に入り柔道を始める。中学2年、3年時に全国中学校柔道大会で優勝。26年の講道館杯、全日本体重別選手権を史上初めて高校2年生(神港学園神港高校)で制し、早くから注目を浴びる。28年日本体育大学に進学。現在はパーク24所属。国内外の数々の大会で実績を残し、東京2020オリンピック、パリ2024オリンピック男子柔道66㎏級で2連覇を達成。