2022年6月号
特集
伝承する
対談
  • 星稜高等学校野球部監督(左)田中辰治
  • 慶應義塾体育会野球部監督(右)堀井哲也

青少年に人間学を
どう伝承するか

日本一の秘訣は‶木鶏会〟にあり

昨年(2021)、34年ぶりの全国大会優勝に輝いた慶應義塾大学野球部、同じく昨年、全国大会2冠を成し遂げた星稜中学野球部。それぞれの監督を務めた堀井哲也氏と田中辰治氏は、互いに技術力だけでなく人間力を高めたことが日本一に繋がったと断言する。その秘訣は『致知』をテキストにした勉強会「木鶏会」にあるという。木鶏会を通じて選手は、チームはどう変わったのか─。その軌跡を伺った。

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対談は2022年3月末に都内ホテルにて行われた。田中監督は同年4月1日付で星稜中学野球部の監督から星稜高校野球部の監督に就任した。

野球指導者の道へ導かれて

堀井 昨年の第10回社内もっけい全国大会のオープニング映像で、星稜中学野球部のグラウンドに立って話された田中先生の特別スピーチを拝見し、とても感動しました。

田中 恐縮です。堀井監督は雲の上の方ですから、対談相手が私でいいのかずっと不安で、私の一つ下で星稜から慶應に進んでプロになった山本省吾に連絡したくらいです(笑)。

堀井 彼はいま福岡ソフトバンクホークスで選手のスカウトを担当しているので慶應のグラウンドにもよく来ますが、昨日もメールが入っていました。

田中 私もさっき、伏木海陸運送の野球部副部長を務める中島大悟さんから、「堀井監督と対談するらしいね」と連絡が入りましたよ。

堀井 彼もよく知っています。

田中 大悟さんは星稜の一つ上の先輩で、現役時代は非常に厳しく鍛えていただきました(笑)。いま先輩の息子さんが中学3年生で、私が指導させてもらっています。

堀井 お会いするのは初めてですが、野球界同士ご縁がありますね。

田中 きょうはいろいろと勉強させていただきたいと思います。そもそも堀井監督はいつ頃から指導者をこころざしていたのですか?

堀井 もともと将来は教師になりたいと漠然と思っていました。小学生の時、水泳が下手だった私に担任の先生が夏休み期間中、必死に指導してくれ、おかげで町内の大会で結果を残すことができましてね。先生というのは子供にこういう成長のきっかけを与える仕事なのか、と子供心に感動したことが私の原点なんです。
中学で野球を始め、高校に上がると野球の魅力に一層引き込まれました。たまたま社会人になってもプレーヤーを続ける機会に恵まれ、現役引退後は導かれるままに、社会人チームのマネジャー、コーチ、監督と指導者の道を歩ませていただきました。2020年からは母校の慶應大学野球部で監督を務めています。

田中 私は最初、教師よりも警察官になりたかったんです。小学校3年生の頃から野球を始め、両親の薦めで野球が強く、教育熱心な星稜中学に進学することになりました。中学1年の頃から試合に出させてもらいましたが、中2の秋にヘルニアで腰を痛め、野球を続けられなくなったんです。星稜高校では野球を辞めようと思っていたところ、両親から高校野球の名将・山下智茂監督(現・名誉監督)の下で人間性を高めてもらえと言われ、マネジャーとして関わらせていただくことになりました。
せっかくなら日本一のマネジャーになってやろうと思いまして、豊臣秀吉のように下足番げそくばんでも何でもやりました。遠征や合宿の時は、監督がお風呂に入る時には一緒に入って背中も流しました。監督は厳しい方で普段はめることはまずありませんが、そういう時に本音がポロッと出てくる。その厳しさの背景にある思いを、私が噛み砕き、パイプ役となって選手に伝えていました。
高校卒業後は山下監督からお声掛けいただいて、大学に通いながら高校のコーチを務め、そのまま教員免許を取得して星稜中学・高等学校に就職し、現在に至ります。

慶應義塾体育会野球部監督

堀井哲也

ほりい・てつや

昭和37年静岡県生まれ。韮山高校卒業後、慶應義塾大学へ進学。59年大学卒業後、三菱自動車川崎で4年間プレーし、現役引退後はマネジャーに。平成5年に創部された三菱自動車岡崎のコーチを経て、8年に監督就任。17年からJR東日本で指揮を執る。令和元年12月に慶大の監督に就任、3年東京六大学リーグ戦にて30年ぶりの春秋連覇を達成。また全日本大学選手権では34年ぶりの優勝を果たす。著書に『エンジョイベースボールの真実』(ベースボール・マガジン社)がある。

人の喜びを自分の喜びにできる無私の精神

堀井 高校生の時から監督の意向をしゃくして選手たちに伝えていた心掛けは素晴らしいですね。

田中 やっぱり、小さい頃から両親や祖父母に神仏をしっかり信仰しなさいと教えられてきたことがベースだと思います。手を合わせること、ご先祖様に感謝することが当たり前になっていました。

堀井 私も26歳の時にマネジャーになったことで180度世界が変わりました。現役の時は大した選手じゃない割に自分のことしか考えられなくて、マネジャーになった時に高校や大学の仲間から、信じられないと言われました(笑)。
マネジャーとして何を一番学んだかと言えば、無私の精神です。先ほど田中先生がおっしゃったように、マネジャーは監督の意向やチームの方向性などすべての視点を持って行動することが大切ですよね。選手の時はすべて自分のために動いていましたが、マネジャーになり初めて人のために行動したんです。誰かのために尽くすこと、そこに喜びがあると遅まきながら気づくことができました。

田中 私も堀井監督とまったく同感で、人の喜びを自分の喜びにできることが快感でした。いま監督をさせていただいていますけど、私は監督向きじゃないなと思うんです。目立たなくていいから、陰で人を立てたいという思いが強くて。お世話好きなんでしょうね(笑)。

堀井 逆に監督向きだと思いますよ。監督は人を支えるという考えを軸にえないと間違った方向に行ってしまい、「自分のチームだ」と勘違いしてしまいますから。

田中 そうですか。光栄です。

堀井 私も無私の精神で監督業に精進したことが、結局長く続いた一つの要因だと思います。おかげさまで初めに監督を務めた三菱自動車岡崎では都市対抗準優勝を、その後のJR東日本では10年連続で都市対抗に出場し、2011年には優勝を果たすことができました。いまでも、この発言は自分のためなのかチームのためなのか、自問自答しながら指導しています。

田中 私はさらに思春期で多感な中学生の指導なので、言動や態度に特に気をつけています。野球の技術ももちろんですが、この子を一人の人間として自立させるためにはどうしたらよいのか、常に心を砕いています。

堀井 教育だから、当然きつい指導もありますよね。

田中 ありますね。山下智茂名誉監督の厳しい指導を受けて育ってきたので私もかなり厳しいんですけど、技術的なこと以上に人間性に欠ける行動をした時は雷を落としています。山下名誉監督は「野球という教科書を使って人生勉強をする」とスローガンを掲げ、星稜高校を全国屈指の強豪校にされました。ですから私も中学の監督に就任した2001年、「人間性も野球も日本一」と掲げたんです。
よく、「野球も人間性も日本一」と間違えられますが、人間性のほうが重要なので人間性が先にくる。人間性がよくなかったら、どんなに練習してもうまくなりません。

星稜高等学校野球部監督

田中辰治

たなか・たつはる

昭和52年石川県生まれ。星稜中学では1年次から活躍するも、怪我により星稜高校ではマネジャー兼三塁コーチャーとして、夏の甲子園準優勝を経験。大学に通いながら星稜高校のコーチを務めた後、平成13年に星稜中の監督に就任。令和3年全日本少年軟式野球大会にて5年ぶり4度目の中学日本一に。その翌月に行われた全日本少年春季軟式野球大会でも優勝し、2冠の偉業を成し遂げた。監督就任以来、史上最多6度の日本一に導いた。著書に『人間性も野球も〝日本一〟』(ベースボール・マガジン社)がある。