2024年4月号
特集
運命をひらくもの
対談
  • 東洋思想研究家田口佳史
  • 富士製薬工業会長今井博文

繁栄するものと
廃れゆくものの道

産婦人科関連の医薬品でトップクラスを誇る富士製薬工業。同社には他社にはない10数年来の取り組みがある。徳目評価を組み込んだ独自の人事制度である。会長の今井博文氏が事業における徳の重要さに気づいたのは約20年前。爾来、徳に力点を置いた経営を続け、業績を飛躍的に伸ばしている。今井氏が師と仰ぐ東洋思想研究家の田口佳史氏と共に、これまでの歩みを振り返っていただきながら、事業のあるべき姿を語り合っていただいた。

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後継者は覚悟を決めること

今井 師と仰ぐ田口先生と対談する機会をいただけて、とても光栄です。たくさんの教え子がいらっしゃる中で私を対談相手にご指名いただいたと聞いて恐縮するばかりで……。

田口 いや、私は今井さんの謙虚なお人柄と、経営者としての手腕を高く評価していますし、とりわけ10年以上にわたる徳をベースにした社風づくりにはかつもくすべきものがあると思っているんです。それは必ずや多くの経営者の指針となるはずです。きょうはこれまでの人生の歩みを含めて経営者としての思いをぜひ心ゆくまでお話しください。

今井 身に余るお言葉をありがとうございます。

田口 改めて振り返ってみると、今井さんとのお付き合いも随分長いですね。かれこれ30年になりますか。お会いした頃、あなたはまだ社長を継がれる前、30歳前後だった。

今井 はい。次世代の経営幹部候補を対象とした田口先生の研修に参加させていただいたのが最初でした。それからしばらくして先生のご著書『人生尊重なき企業は滅びる』を読んでとても感じ入るものがありました。というのも、「人が一番」であり、「人、仲間の一人ひとりの人生を大切にする経営をしたい」という創業者である先代・今井精一の思いの根っこの部分が、先生の本を通して少し理解できたんです。特に「愛」という言葉には大変共感しました。
その頃の私は生意気というか、横文字の競争戦略論などを少しかじっていい気になっておりましてね。当然、先生は完全に中身を見透かされていて、厳しくご指導をいただいたわけですが(笑)。

田口 私が後継者の皆さんにまず教えるのは「覚悟を決める」、自社と自分を一体とし、社員と顧客の幸せの世話係に徹するということです。今井さんも当時はまだ覚悟ができているようには見えませんでしたが(笑)、それでもとても印象深くしたのは第一に何と言ってもあいきょうがある。愛嬌がよく周りに可愛がられるというのは経営者の大切な要件の一つです。
2つ目には、心配でとても放っておけないという気持ちに駆られる。これは愛嬌と地続きの感情だと思いますが、これもやはり経営者にとっては重要な要素。それでこの青年はまだ経営の実践はできていないけれども、人間性を生かせば大成するのではないかと感じたんです。
実際、その直感は当たっていました。御社は2012年には東証一部上場を果たし、いまも海外の名だたる製薬会社と提携しながら右肩上がりの成長を遂げられている。売り上げも300億円を大きく超えられましたね。

今井 おかげさまで今期は400億円を超える見込みです。社員数も国内外合わせて約1,500名をようするまでになりました。
ご存じのように当社は1965年(創業は1954年)の会社設立以来、特定の分野をターゲットとして医薬品の製造販売を中心に事業を展開してきました。診療科で言えば産婦人科に必要な医薬品に特化して、現在では思春期から老年期まで女性のライフステージに必要なすべての医薬品(50品目)をお届けしています。女性医療分野では現在、トップクラスです。

田口 今井さんが先代の後を継いでそこまで会社を大きく完備充実されたのは、実に誇るべきことだと思います。

今井 田口先生と出会って数年後の1998年、入退院を繰り返していた先代から34歳で社長職を継ぐことになりました。この事業継承の大変な時期を含めて先生にはこれまで人生や経営のいろいろな局面で大切な教えをいただいてきました。
お話にあった経営者として覚悟を決めて挑むこと、そして物事を捉えるのに大局観(根源的、長期的、多様性という視点)を持つことなどを一貫して教えていただいてきました。いまの私があるのはそのおかげだと思っています。不肖の弟子ではありますが、私にとって田口先生はもう一人の父の存在でもあるんです。

東洋思想研究家

田口佳史

たぐち・よしふみ

昭和17年東京都生まれ。新進の記録映画監督としてバンコク市郊外で撮影中、水牛2頭に襲われ瀕死の重傷を負う。生死の狭間で『老子』と運命的に出会い、東洋思想研究に転身。「東洋思想」を基盤とする経営思想体系「タオ・マネジメント」を構築・実践し、1万人超の企業経営者や政治家らを育て上げてきた。主な著書(致知出版社刊)に『「大学」に学ぶ人間学』『「書経」講義録』他多数。最新刊に『「中庸」講義録』。

トップは万卒のために死ぬ心根を持つ

田口 今井さんと出会った頃、今井さんの求めもあって先代の精一さんに4回ほどお会いさせていただいたことがありましたね。
先代と話していて抱いたのは、経営者というよりも、人生を深く考える宗教家というイメージでした。その頃はベンチャーが花盛りで、儲け一辺倒の人を多く相手にしていましたから、社員一人ひとりやお客さんを大切に思う先代の姿勢にとても好感を抱いたことを覚えています。また今井さんご自身もそういう先代をよき手本、目標として尊敬されていた。
経営の善し悪しはともすれば売り上げや利益といった計数だけで見てしまいがちですが、経営者の素質、親孝行など人間性を知ることはとても重要なんです。その点、今井さんのご家庭は範とすべきものがあるわけですが、どのような家庭環境でお育ちになったのですか。

今井 当社が設立された1965年は、私が誕生した翌年です。その頃は社員が20名ほどとまだ会社の規模も小さく、富山の自宅には工場が併設されていましたので、社員も一緒の大家族という雰囲気の中で育ちましたね。
父は東京で営業を担当し、富山では母が工場長として生産や研究の責任を担っていました。2人とも土日もなく忙しくしている姿しか記憶になくて、その分、従業員の方が本当に親のように接してくださいました。
それを寂しく感じた時期もありましたが、先代が「人が一番で、社員の仲間を何よりも大切にする」という約束と、その仲間はもとよりお客様とお取引先が共に発展して皆の幸せの輪を広げたいという思いを果たすために頑張ってきたことを後になって気づいた時は、とても嬉しく思って感動したものです。
先代は亡くなる少し前、「大事にするように」と言って「トップはばんそつのために死ぬ心根を持つ」という松下幸之助さんの言葉を教えてくれました。すごいことを言うなと思いましたが、それが先代の生き方だったのでしょうね。社員のためには身を投げ出す覚悟を先代が身を以て示してくれたからこそ、その本気の覚悟を受け継ぐことができたのではないかと思っています。

田口 「人が一番」という考えは、いま御社の経営理念としてしっかり息づいていますね。

今井 「お客様の顔が見える商売をしたい」というのが先代のこだわりでもありました。診療科の中でも産婦人科の医師は少なく、そういう市場であれば先生方と顔の見える関係が築ける。創業時から産婦人科の薬に力を入れたのは、そういう思いもあったからだと聞いています。
まぁ、いまでこそこういうお話もできるのですか、実際の父はとても厳しい存在で、私自身、大学を出てもすぐに当社に入社することを躊躇ためらうくらいでした。実際、海外留学をしながら別の道を模索したりする中で、26歳の時に先代の体調がかんばしくないと聞いて帰国して入社を決めました。取締役を務めた後、98年に34歳で社長に就任したのですが、創業者はその2年後、69歳で他界しました。

富士製薬工業会長

今井博文

いまい・ひろふみ

昭和39年富山県生まれ。62年富士製薬工業に入社。取締役、専務を経て平成10年社長に就任。24年東証一部上場を果たす。28年代表取締役会長。公益財団法人今井精一記念財団代表理事も務める。