2023年1月号
特集
げずばやまじ
インタビュー②
  • 元全国交通事故遺族の会理事片瀬邦博

「事故の真相を知りたい」
その父親の一念が
ドライブレコーダーを生んだ

28年前、東芝の技術者だった片瀬邦博さんは長男の啓章さんを突然の交通事故で亡くした。片瀬さんは事故の真相を明らかにしたいという一念で、事故を映像で残すための開発に取り組む。これが後に国内外に広く普及するドライブレコーダーである。開発に至る様々なご苦労を交えながら、これまでの歩みをお話しいただいた。

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家族に降りかかった突然の悲しみ

——ドライブレコーダーはいまや人々にとって安全確保や事故の検証などに欠かせないものになっていますが、東芝の技術者でいらっしゃった片瀬さんのつらいご経験がその誕生の原点にあることは存じ上げませんでした。

いまから28年前、1994年8月3日夜のことですが、ミニバイクに乗っていた長男・啓章ひろあきが横浜市の交差点でダンプカーに追突されて亡くなったんです。19歳の息子はその夜、塾に通っていましてね。普通であれば10時半頃には帰ってきていいはずなのに、何の連絡もない。11時半くらいでしたか、いそ警察署の女性の方からお電話がありました。まさか事故とは思いませんから、「啓章が違反でもやりましたか」が私の第一声でした。相手の女性の声が一瞬詰まって「いや、お亡くなりになりました」と。それからは頭が真っ白になって、どうやって磯子署まで車を運転したかも覚えていません。
息子の死因はダンプカーに追突された後、タイヤに巻き込まれたことによる顔面めつ。事故が起きたのが10時21分だったことが壊れた腕時計から分かりました。
息子は普段はバスで塾に通っていたのに、この日はたまたま私が早く帰宅していて、何気なく自分の通勤用のミニバイクを貸してあげたんです。いま思うと貸さなければよかったと……。

——お聞きしていて胸が詰まります。

これからお伝えする内容は事故の詳細に関わることですが、ドライブレコーダーの開発ともつながってくることなので少しお話しさせてください。
交差点は右左折できる十字路で、水銀灯に照らされてとても明るいんです。事故当時、直進レーンの停止線には赤い乗用車を先頭に、息子のミニバイク、ダンプカーが順番に止まっていたと考えられます。信号が青に変わって赤い乗用車が発進し、ダンプカーの運転手も続いて発進したところ車の下からギーギーという音がして、気づいたらミニバイクを巻き込んでいた、というのが顛末てんまつです。
ところが、ダンプカーの運転手が「何も見ていない」と言っているのに、事故調書にはミニバイクが割り込んできたと書かれてあったんです。

——ミニバイクがダンプカーの前に割り込んできたと。

というのは、この事故には日系ボリビア人女性の目撃情報がありました。道路の反対側で公衆電話を掛けながら事故のあったほうを見ていたら、息子のバイクが右の前方から割り込んできたと片言の日本語で証言したんですね。唯一のその目撃情報を警察は採用するわけですが、くそ真面目で気の小さい息子がダンプカーの前にあえて割り込むなど私にはどうしても考えられなかった。
実際、そのボリビア人の女性の証言には赤い車のことや右折レーンにいた数台の車のことをまったく覚えていないなど、いろいろな矛盾点があったんです。後にダンプカーの真後ろに止まっていた乗用車の4人から「ミニバイクは車の左右を通過しなかった」という証言を得られたことも疑問を持った一つの根拠となりました。

——真実が分からず、やり場のない思いを抱かれたのですね。

通夜や告別式が終わった頃、近くの友人から「納得いかないのなら目撃者捜しでもやったらどうだ」と言われて、そうだと。それで事故から10日目くらいでしたか、「目撃者いませんか」と書いたプラカードをつくって約2か月間、毎日事故現場に立って情報提供を呼び掛けました。
会社の上司に事情を話して定時で切り上げさせてもらい、風雨の日でも事故が発生した夜の11時くらいまで立ち続けました。一方で自宅の連絡先を書いたA3のチラシをつくり、近所の商店や団地などに配ったりもしました。
残念ながら直接の目撃情報を得ることはできませんでしたが、缶コーヒーを持ってきてくださる方や、私には何も言わずにそっと花を供えてくださる方が何人もいてくださいました。ぼう中傷は1件もありません。御礼も言えないままでしたけど、辛い時期でしたので本当に皆さんに助けられてきたといまも感謝の思いでいっぱいになります。

元全国交通事故遺族の会理事

片瀬邦博

かたせ・くにひろ

昭和17年長野県生まれ。長野県立松本工業高校卒業後、東芝トランジスタ工場入社。54年東芝半導体営業統括部に転籍。ご子息の事故当時は東芝半導体営業統括部神奈川支社半導体営業企画課長。