2016年8月号
特集
思いを伝承する
一人称
  • 北方領土元島民髙岡唯一

我が故郷、
北方領土返還への
思いはやまず

昭和20年の敗戦後、突如としてソ連により不法占拠された我が国固有の領土である北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)。度重なる返還交渉にもかかわらず、70年以上を経たいまなお返還の目途は立たず、当時約1万7,000人いた島民の半数以上が再び故郷の地を踏むことなく亡くなっている——。長年、北方領土返還運動に携わり、「北方領土の語り部」として全国各地で精力的な講演活動に取り組んでこられた北方領土元島民の髙岡唯一氏に、波瀾に満ちた生涯と、いまも戻れぬ故郷への思いを語っていただいた。

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鮮やかに蘇る我が故郷、多楽島の日々

私は昭和20年の敗戦を回想する時、いつも『故郷』という叙情歌を歌います。「兎追ひし/彼の山/小鮒釣りし/彼の川/夢は今も巡りて/忘れ難き/故郷……」。

そうすると、終戦後に旧ソ連に不法占拠され、いまなお自由に立ち入ることができない我が故郷、歯舞群島・多楽島での楽しかった日々が、昨日のことのように鮮やかに目の前に蘇ってくるのです。

歯舞群島は5つの島からなっており、その一つが多楽島で、面積は約10平方㎞。昭和20年当時には230戸、1,400人の島民が生活していました。髙岡家はその多楽島で代々昆布の採集生産業を営んでいて、当時10歳だった私も物心ついた頃から毎日のように両親の手伝いをしていました。

私の主な仕事は、父が採ってきた昆布や波打ち際に上がった昆布を浜から馬車に積み込み、干し場まで運ぶこと。そして、製品にならない雑昆布を畝にして焼く間の番をすることでした。焼けて灰になった昆布を袋詰めにして工場に持ち込みますと、ヨードとカリに分類されます。ヨードは医薬品原料、カリは火薬源になるそうで、私は子供ではありましたがお国のために仕事をしていたのです。

仕事を終えると、草原の中で乗馬して駆け出し、振り落とされても怪我をせず戯れたり、海に行って石を蹴ったりして楽しく遊びました。多楽島での日々は、まさに『故郷』の歌そのままでした。

しかし、そのような日々も長くは続きませんでした。昭和20年7月14日、海を隔てて40数㎞離れた根室市がアメリカ軍の空襲に見舞われ、もくもく立ち上る黒煙が多楽島から見えたのです。8月になると、「日本は戦争に負ける」との情報が伝わってきたのですが、日本軍の有利な情報を信じていたので、それを聞いた父や島民の驚きと落胆は相当なものでした。

そして、8月15日の正午、私が浜辺で遊んでいると、両親も含め、近くにいた大人たちが皆、その場で次々と膝を折って地面に手をつき頭を下げ始めたのです。当時の私にはよく状況が呑み込めなかったのですが、この時、大人たちは昭和天皇の「玉音放送」を聞いていたのだと後に教えられました。日本が戦争に負けたのです。

北方領土元島民

髙岡唯一

たかおか・ただいち

昭和10年歯舞群島・多楽島生まれ。20年終戦後旧ソ連による北方領土不法占拠が行われ、一家で多楽島を脱出。以後、北海道根室の地で育つ。羅臼町で漁業関係の職に就いた後、「社団法人千島歯舞諸島居住者連盟」(現在は公益社団法人)に加盟し、北方領土返還運動に携わる。現在、同連盟援護問題専門委員会委員長などを務め、「北方領土の語り部」として全国各地で講演活動などを精力的に行っている。