2016年11月号
特集
闘魂
対談③
  • 日本大学医学部消化器外科教授 医学部長高山忠利
  • 順天堂大学医学部小児外科、小児泌尿生殖器外科主任教授山髙篤行

手術は祈りである

国内で年間3万人が命を落とすという肝臓がん。その患者を1人でも多く救おうとする肝臓がん手術のプロフェッショナル・高山忠利氏。幼い命を脅かす様々な病から子供たちを救う小児外科のスペシャリスト・山髙篤行氏。ともに不可能を可能にしてこられた名医が語る、手術への飽くなき挑戦、そして患者に対する思いとは。

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仕事の醍醐味

高山 山髙先生とは初めてお目にかかりますが、以前あるテレビ番組をたまたま拝見しましてね。「畏れをもって手術に向かう」とおっしゃっていたのが印象的で、なかなか口にできることではないだけに、尊敬できる先生だなと思っていました。

山髙 恐れ入ります。私は高山先生のお名前はずっと前から知っておりましたので、本日お会いできるのを楽しみにしていました。
ちなみに、いま先生のところでは年間どれくらい肝臓がんの手術をされているのですか。

高山 年間300件くらいやっていて、平日に毎日2、3件ずつやっている計算です。肝臓外科医になって35年経ちますが、かつては肝臓がんといえばほとんど不治の病でした。仮に手術ができたとしても5年生存率は10%未満だったんです。
いまではだいぶ世界も変わってきて、術後5年生存率は全国平均で57%まで上昇しましたけど、まだ決して十分ではありません。うちの大学では64%なので平均よりも7%いいのですが、いま僕らが目標にしているのが70%です。それくらいでないと、患者さんを治したとはとても言えないんです。
山髙先生のところは年間どれくらいの手術数になりますか。

山髙 私たち小児外科というのは細かい手術が結構多いので、順天堂大学だけで年間1,200件はいきます。そのうち私が手術するのは4分の1くらいですね。それプラス、他の病院などでも200件くらいやっています。

高山 僕は消化器外科医で専門は肝臓・胆嚢・膵臓の3臓器ですけれど、小児外科は心臓と脳、目以外のすべての臓器が対象だから大変ですよね。

山髙 小児外科医でも泌尿器をやらない先生が結構いるんですけれど、私は泌尿器もやりますので、確かに幅は広いですね。肝臓の手術なども専門の先生にご指導いただきながら、やらせていただいています。最近では、内視鏡外科手術も数多く行っています。
他にも、例えばお尻に穴のない子供が5,000人に1人くらいの割合で生まれるんです。そういう子の中には、手術でお尻に穴を開けて腸を下ろしても、肛門の括約筋が先天的に弱くて漏らしてしまう子も出てくる。どんなに一所懸命手術をしても、そういったケースになった場合には、自分がその子の面倒を一生見てあげられるわけじゃないだけに、考えさせられます。
ただ、そういった難しいケースは全体の2割くらいで、残りの8割は小児外科の技術もかなり進んできたので、普通の子供と同じように治るんですよ。
例えば食道閉鎖の場合でも、心臓に大きな病気がなければ、食道を繋いであげることで人と同じように生活していけます。とにかくいろいろなケースがありますが、手術を成功させないと、その子の一生が惨めなものになってしまうのが小児外科の特徴だと思います。子供たちに残された人生の時間がすごく長いだけに、責任も重い。
その責任を果たすには手術のバリエーションも幅広くて勉強が大変ですけど、それが醍醐味でもあるんです。よくほかに趣味はないのかとバカにされるのですが、余っている時間があったら何をするかと言えば、解剖の本を読んだりしていますね。

高山 それはすごいな。

山髙 私にとっては仕事自体が趣味みたいなものですから(笑)。

日本大学医学部消化器外科教授 医学部長

高山忠利

たかやま・ただとし

昭和30年東京都生まれ。55年日本大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院外科でレジデント・医員・医長を経て、平成9年東京大学医学部肝胆膵移植外科助教授。13年日本大学医学部消化器外科教授。26年同大学医学部長に就任。

一流の外科医の条件

山髙 先ほど、先生のことはずっと前から知っていたと言いましたが、なぜかというと肝臓外科の世界的権威・幕内雅敏先生のもとにいらっしゃると聞いていたからなんです。幕内先生は土日もなくて。365日休みなしで働かれていたそうですね。

高山 そうです、ずっとでした。

山髙 当時から幕内先生は大変な評判だったので、その下で働かれているのであれば、すごい方に違いないと思っていました。

高山 実はもともと僕は開業志向で医学部に入ったんですよ。父親から、お金を儲けて親に楽をさせなさいと言われてましてね(笑)。
それに大学卒業後には、父親が5階建てのビルを建てて、1階が僕の外科クリニック、2階は弟の歯科クリニックが入れるよう準備してくれていたんです。
専門は学生時代から外科しかないな、と考えていました。特に当時不治の病と言われていたがんに興味を持って、それに挑戦したいと思っていたんです。大学院でのがん研究で学位を取得した関係で、卒業前に国立がんセンターに短期の臨床研修に行くことになりましてね。そうしたら、そこにいらしたのが……。

山髙 幕内先生だったと。

高山 そうです。初めて先生の手術を見た時は衝撃でした。美しいんですよ、手術が。動作も術野(手術を行っている部分)もすべてが美しかった。それにストイックな姿勢にも驚きました。先ほども言いましたように、本当に毎日毎日来るんですよ。正月もいらっしゃる。もうそれだけで尊敬ですね。
研修期間は半年でしたが、その後すぐに幕内先生から電話がありましてね。国立がんセンターで中堅医師を育てるシニアレジデント制度を始めるから来ないか? と誘っていただいたんですよ。
結局、それがきっかけでしたね、開業への気持ちがころっと変わったのは。

山髙 どれくらいの期間、幕内先生と仕事をされたのですか。

高山 15年くらいです。途中、先生は信州大学に教授として行かれて離れはしましたけど、その間もしょっちゅう一緒に肝がん手術や生体肝移植をしていました。後に先生が母校の東京大学に戻られてからは、僕は助教授として先生の下について、5年間みっちり仕事をしました。その当時は、一連托生のようなもので、もうずっと病院内で一緒にいましたね。

山髙 幕内先生はどんな指導をされる方でしたか。

高山 それが人に教えないんです、一切教えない。僕がレジデント(研修医)として国立がんセンターに行ってすぐの時に、ちょっと手術のヒントを伺おうと思って聞いたら、聞こえない振りをされたんですよ。あぁ、これは盗むしかないかと思って、それ以来15年間一度も質問しませんでした。

山髙 それもすごいですね。でも先生のように盗むというか自分で考えなければ、絶対にいい外科医にはなれないと思います。

高山 そうですね。

山髙 いわゆる普通の手術を繰り返してやる医者にはなれると思います。でも、難しい症例がきた時には、一歩立ち止まって考えなければいけません。その時に自分で考えながらやっていく癖をつけておかなければ、一流の外科医にはなれないと思います。
それにあまり手取り足取り教えてもらいたくないっていうのもありますよね。それよりも、うまい人の手術を見ることのほうがよっぽど大事だと思う。
これは私の持論ですが、先生に手取り足取り教えてもらう人と、何も教えてもらえないけど、手術の手伝いや、最高のオペを見させてもらえる人の2人がいた場合、私は後者のほうが将来伸びると思います。

高山 分かります。それに教えてもらっていたら、その教えてくれた人を超えられないでしょうね。でも盗んだら、どこか1つでも超えられるかもしれない。
実際、幕内先生も努力されたと思うんです。それで口癖のように、「人間、そう能力に差はないんだから、人が遊んでいる時に努力しなかったら勝てないよ」と言っていたのだと思います。だから、「人の2倍、3倍努力しろ」って。僕もそうだろうなと思って頑張りました。

順天堂大学医学部小児外科、小児泌尿生殖器外科主任教授

山髙篤行

やまたか・あつゆき

昭和33年神奈川県生まれ。60年順天堂大学医学部卒業。同大学医学部附属順天堂病院の外科研修医になる。平成18年順天堂大学医学部小児外科主任教授に就任。24年東京医科大学兼任教授(消化器・小児外科学分野)。