2016年12月号
特集
人を育てる
インタビュー
  • シンクロナイズドスイミング日本代表ヘッドコーチ井村雅代

本気で
向き合えば
可能性は開ける

リオ五輪でシンクロ日本代表ヘッドコーチに復帰。デュエット、団体ともに見事銅メダルをもたらした井村雅代さん。その厳しい指導ぶりから〝鬼コーチ〟の異名も取る名伯楽は、前回五輪でメダルなしに終わった日本の選手たちをいかに鍛え上げたのか。その苦心の足跡を振り返っていただきながら、ご自身の体験を通じて築き上げた人育ての極意をお話しいただいた。

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日の丸を背負う醍醐味を味わわせてやりたい

──リオ五輪では、デュエット、団体とも見事に銅メダルを獲得。おめでとうございます。

ありがとうございます。何とかメダルを取る国に返り咲くことができました。頑張ればメダリストになれることを形として示せたことは、日本のシンクロ界にとってすごく大きかったと思います。

──選手の皆さんの演技は本当に素晴らしかったですね。

いやぁ、もう無理やりにメダルに漕ぎ着けたというのが正直なところで(笑)。あの子たちは、勝つためにどんな覚悟で臨むべきかとか、どこまで自分を追い込まなければならないのかとか、そういうことをあまりにも知らなさ過ぎました。
あの中には、私が日本から離れていた間に日本代表になって、ロンドン五輪に出場した子が5人いるんですけど、彼女たちはその間に勝つ喜びも、負ける悔しさもほとんど経験していない。日の丸を背負う選手としての醍醐味を味わったことがなかったんですよ。
「ロンドン五輪でどんなことを覚えている?」って聞いたら、「5位だったから、試合が早く終わって暇だったことだけ覚えています」と。何やそれ、それはないよって(笑)。
もちろんずっと選手を続けているわけだから、シンクロが好きだし、強くなりたいとも思っている。だけど日の丸を背負う辛さとか、あの心臓が口から飛び出すほどの緊張感とか、それをギリギリのところで乗り越えた時の喜びや解放感とか、そういうものを何も味わってきていない。だからジャパンのユニフォームは着てるけど何か背筋が伸びない。この子ら本当に可哀想やなぁと思いました。

──強豪の日本選手が、なぜそうなってしまったのでしょうか。

それは何かっていうと、負けても「精いっぱいやったから、それでいいじゃないの」っていう言葉にごまかされてきたんです。いま日本に充満してる言葉ですけどね。
そう言われると一瞬は救われますよ。でも五輪の舞台で一所懸命戦うのは当たり前だし、そこで負けて悔しくなかったら嘘ですよ。
私には、負け損はない、負けたら何かを得て帰らなければならないという考えがあるんですけど、そのためには負けた原因をピシッと押さえること。痛いとこに触れないとダメです。それが次の道標になるんです。
ところがあの子たちは、痛いところに触れない大人に囲まれてきたために、選手としての醍醐味を味わえずにきたんだと思います。大人がそうさせたんですよ。

──確かに、そういう風潮はあるかもしれません。

よく引退した選手が復帰することがあるけど、あれは普通の社会人では味わえないような達成感が忘れられないからなんです。日の丸を背負う選手の重圧はとてつもないけど、それをはね除けた時の喜びも大きい。ギリギリまで追い詰められて自分を知る素晴らしさもある。だから私は、日の丸を背負う選手にしか味わえない醍醐味を、この子らに味わわせてやりたいと思ったんですよ。
彼女たち自身も「オリンピックのメダルが欲しい」と言いました。でもやってることはとてもメダルが取れるような練習じゃない。足らんとこだらけですよ。私は「本当にメダルが欲しいの?」って何回繰り返したか分かりませんけど、あの子たち、それだけはハッキリ「はい!」って言うんです。
そしたら分かったと。あいにく私は金メダルは取ったことはないけど、銀メダルまでならどんな演技をしたら取れるかは見えてる。そこまで言うなら、連れていってやろうと。そうして本気で向き合い始めたら、まぁ彼女らの言うところの〝地獄の練習〟になってしまったらしいんですけど(笑)。

シンクロナイズドスイミング日本代表ヘッドコーチ

井村雅代

いむら・まさよ

大阪府生まれ。中学時代よりシンクロナイズドスイングを始める。選手時代は日本選手権で2度優勝し、ミュンヘン五輪の公開演技に出場。天理大学卒業後、大阪市内で教諭を務める傍ら、シンクロの指導にも従事。昭和53年日本代表コーチに就任。平成18年より中国、イギリスの指導を経て、26年日本代表ヘッドコーチに復帰。リオ五輪ではデュエット、団体とも銅メダルを獲得。五輪でのメダル獲得数は通算13個となる。著書に『あなたが変わるまで、わたしはあきらめない』(光文社知恵の森文庫)『井村雅代コーチの結果を出す力』(PHP研究所)など。