2020年5月号
特集
先達に学ぶ
対談
  • (左)音楽学者・指揮者、明治学院大学名誉教授樋口隆一
  • (右)横浜市公立中学校教諭、授業づくりJAPAN横浜代表服部 剛

正義の人・樋口季一郎
の生き方が教えるもの

ユダヤ人難民の救出、キスカ島撤退作戦、占守島の戦いなど、数々の奇跡を実現し、日本近代史に不滅の足跡を残した樋口季一郎中将。しかし、その名は日本人にほとんど知られていない。樋口中将の孫として祖父の実像を広く発信している明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏、日本の偉人・歴史の真実を子供たちに語り伝えてきた横浜市公立中学校教諭の服部 剛のお二人に、樋口中将の貫いた生き方、いまを生きる私たちが学ぶべきものについて、貴重なエピソードを交えて語り合っていただいた。

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本物は常に謙虚で自らの功を誇らない

服部 きょうは、私の尊敬する日本の偉人・樋口季一郎きいちろう中将のお孫さんである樋口先生と対談できるということで、大変光栄です。
いまから3年ほど前、東京の乃木のぎ神社で樋口中将のお孫さんが講演をされるという情報を、偶然知人から聞き、「これは行かなきゃいかん!」と参加したのが、樋口先生との最初の出逢いでした。
そこで本には書かれていない、樋口中将の実像について聴くことができ、得したといいますか、すごく感動したんです。また、樋口先生が私の出身大学である明治学院大学で教鞭きょうべんられていることを知り、不思議な縁を感じました。

樋口 それは嬉しい(笑)。あの時の講演会は、乃木神社の中央乃木会の主宰で、特に明治以降、日本近代化の基礎をつくった人物の子孫に話を聞こうというものでした。百人くらいの参加者が集まって、本当にすごかったですね。

服部 素晴らしい講演会でした。

樋口 実は、いま私は祖父が遺した500ページにもなる遺稿を本にまとめていましてね。いろいろ調べて分かったのですが、祖父が最初に配属された第一師団しだん歩兵第一連隊は、かつて乃木希典まれすけ将軍が連隊長をやっていらっしゃったんです。それで祖父は乃木将軍のお話を聴いたことがあって、「軍神といわれたほどの人なのに、謙虚で優しかった」と、非常に尊敬していました。だいたい、大したことのない人が威張るんです(笑)。
だから、祖父も誰に対しても絶対威張ることはしない、その気持ちを一生持っていた人でした。

服部 樋口先生は講演会でも、樋口中将は自分の功績を人に言ったり、自慢したりしない人だったとおっしゃっていましたね。私なんかすぐ言いたくなります(笑)。

樋口 ええ、自分がこれまで何をしてきたか、あまり人に語ることはありませんでした。その生き方は本当に立派でした。やはり出るところに出ればバシッと主張するけども、それ以外では自分の功績を言いふらすようなことはしない、それが昔の日本人なんですよ。

音楽学者・指揮者、明治学院大学名誉教授

樋口隆一

ひぐち・りゅういち

昭和21年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒、同大学院修士課程修了。ドイツ学術交流会(DAAD)奨学生としてドイツ留学。帰国後は明治学院大学に奉職し、西洋音楽史を講じる傍ら、指揮者、音楽評論家として幅広く活動。京都音楽賞、辻荘一賞など受賞多数。平成14年オーストリア学術芸術功労十字章を授与。明治学院大学教授・文学部長を歴任し、27年より明治学院大学名誉教授。祖父は樋口季一郎中将。著書に『バッハの人生とカンタータ』(春秋社)『陸軍中将樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版)など多数。

逆境に挫けず勉学に打ち込む

服部 ところで、樋口中将のお生まれは兵庫県淡路島でしたね。

樋口 ええ、祖父は明治21(1888)年、現在の南あわじ市阿万上町あまかみまちに父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟の長男として生まれました。その地域はあまり軍人が出ないところで、しかも人形浄瑠璃じょうるりが盛んなんです。いまも人形浄瑠璃の劇場、博物館があります。だから、祖父の子供の頃の夢は人形浄瑠璃の人形遣いだった。

服部 ああ、人形遣いに。

樋口 ただ、実家は江戸時代から続く廻船かいせん問屋でしてね。瀬戸内海航路を中心に大阪や京都、江戸まで物資を運ぶ商家でした。ところが、明治になって昔ながらの廻船業は時代遅れになっていきました。さらに、台風などで船が沈んでしまったことも加わって、祖父の父の代で没落してしまうんです。
そして祖父が11歳の時に両親が離婚してしまい、祖父は母方に引き取られることになります。

服部 大変な逆境ですね。

樋口 でも祖父は勉強ができたんですよ。それで、陸軍の主計将校をしていた実父・久八の弟、樋口勇次が、自分に子供がいなかったこともあって、親代わりに養育費を出してくれることになりました。
結局、18歳の時に樋口家の養子になるのですが、とにかく祖父は勉強熱心で、丹波たんば篠山ささやまの進学校・鳳鳴ほうめい義塾から、大阪の陸軍地方幼年学校、東京市谷の中央幼年学校、陸軍士官学校に進み、先ほどの乃木将軍ゆかりの陸軍第一師団歩兵第一連隊に配属されるなどエリートの道を歩んでいく。
当時の陸軍士官学校は東京帝国大学に入るより難しいと言われていました。しかし、その陸軍士官学校を卒業した祖父は大正4(1915)年、さらに難しい陸軍大学校に合格しているんです。陸軍大学校は、勉強だけでなく所属する連隊の推薦も必要です。この時に連隊から合格したのは、3年先輩の阿南あなみ惟幾これちかと祖父の2人だけでした。ご存じの通り、阿南惟幾は後に戦時中最後の陸軍大臣になります。2人は貧乏しながら、共に一所懸命勉強に励んだ間柄だったんです。

服部 樋口中将が苦労しながら勉強し、自らの人生を切り拓いていったことが伝わってきます。

樋口 祖父は、とにかく「くそ」という言葉がつくくらいに、勉強するしかないんだよと、私によく言っていました。あの頃の日本人は皆、貧しい中で本当に大変な勉強をしていますよ。それが日本という国を強くしていったんです。

横浜市公立中学校教諭、授業づくりJAPAN横浜代表

服部 剛

はっとり・たけし

昭和37年神奈川県生まれ。学習塾講師を経て、平成元年より横浜市公立中学校社会科教諭。元自由主義史観研究会理事。現・授業づくりJAPAN横浜(中学)代表。著書に『先生、日本のこと教えて―教科書が教えない社会科授業』(扶桑社)『先生、日本ってすごいね』(高木書房)『感動の日本史』(致知出版社)などがある。