巨星、堕つ──。
尊敬する渡部昇一先生の突然の訃報に言葉を失いました。保守の論客であり、確固たる歴史観を貫き、また文学・文化にも造詣深い、まさに「知の巨人」でありました。渡部先生の知遇を得て、ご指導賜りましたこと、政治家として幸運でした。
5年前、自民党総裁選に再挑戦した際、私の背中を強く押してくださったのも、渡部先生でした。
総裁選の前に、先生にお招きいただき、ご自宅を訪問したことがあります。その際、ご家族による素晴らしい演奏会と奥様の手料理でおもてなしくださいました。愛情で結ばれた、ご一家の絆の強さに感銘を受けたことを今でも覚えています。
そのあと、書庫にもご案内いただきましたが、15万冊の蔵書に圧倒され、「知の巨人」と言われる所以は、ここにあると納得しました。
早いもので第2次安倍内閣が発足して4年半が過ぎました。この間、先生からご叱責されたこともありますが、様々な場面で温かい激励のエールを送ってくださいました。
私が熟慮に熟慮を重ねた戦後70年談話について、渡部先生は月刊誌で「この未来志向の談話があれば、少なくとも『戦後100年』までは新たな総理談話は不要である。大手を振って国際社会への貢献を果たすべきだ……『戦後』は安倍談話を持って終わりを告げることになったと言えるだろう」と評価してくださいました。
この70年談話をめぐっては、保守層からの批判もありましたが、私がこの談話に込めた思いを、先生は深い洞察を加え、最大限の賛辞を贈っていただいたことは望外の幸せでした。
先生の励ましの言葉で、どれほど勇気付けられたことか。
渡部先生はエッセイ『知の湧水』の中で、敗戦の後も皇室が維持され「昭和」が続いたことについて、「自国の歴史の一貫性こそは、意識下において愛国心のもととなり、国民としての誇り、国の繁栄のもととなる」と説いておられます。
先生は歴史観、憲法、教育、安全保障という国の根幹にかかわる問題について揺るぎない信念を貫き通されました。まさに保守の神髄であります。
これまでの渡部昇一先生のご厚情に改めて深甚なる謝意を表しますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
先生、どうか天上からお見守りください。
渡部さんはまさに「知」の巨人とも言える人だった。
それを証すのは彼の新邸に構えられた書庫の蔵書の膨大な数とその質の素晴らしさだった。中にはある時大学の教授としての給料の全てをはたいて買い求めたと言うような本もあったし、ビアズレーの挿絵の載ったイエローブックの初版本まであった。書庫を案内されて私が共感したのは、私自身もよくあることだが、書庫に入って取り出した本をすぐに読みたくなって立ち読みすることが多々あるものだが、その立ち読みするための本を置く台がしつらえられていたり、さらに高じて取り出した本を熟読するための簡単なベッドまで備えられていたものだった。
彼の英語に関する該博な教養は並のものでなしに、英語の源泉のケルト語にまで及んでいて、並の英語通の及ぶところではなかった。
いつか家族連れでの外国旅行中に私が以前ヨットレースに出かけたアメリカで、ヨットの部品の買い物に行った店で知らされたある表現の便利さに感心して、ああした慣用の表現を教えぬ日本での英語教育の欠陥を口にしたら、一緒にいた英語通を任じている竹村健一が「そんな表現は英語としたら邪道だ」と非難したが、渡部さんが「いやいや指示形容詞を副詞として使うのは英語の正統な表現ですよ」と古典の中の事例をあげてたしなめ、竹村も沈黙せざるを得なかったのは、生半可な英語使いの私にとって極めて印象的なものだった。そうした教養をはるかに上回って渡部さんは日本の伝統に関しての該博な知識を踏まえての無類な愛国者だった。
世界が混迷の度を深め、日本人が己のアイデンティティーを見失いかけている現代に、彼のような「知」の巨人を失ったことを痛切に悔やまずにはいられない。
世に知的な人は少なくない。豊かな知識と鋭い洞察力を持ち、未来を指し示せる人もいる。ベンチャービジネスを開き、新技術を見付け、次世代の育成に当たる人々は多い。
良心的な人も少なくない。世の毀誉褒貶を顧みず、常に信じるところを説いて止まぬ人士も珍しくはない。
また、今の世を憂い国を愛し、日本と日本人と日本文化を誇りとする愛国者も少なくはない。
だが、この3つが3つながらに鼎立している「知的な巨人」は、必ずしも多くはない。知的な人でも世の風潮に媚びてありもしない日本批判に加わる者もいれば、戦後の「東京裁判史観」から逃れ得ない者もいる。中でも多いのは相も変わらぬマスコミ論調と官僚主導の事なかれ主義に溺れて「無難な論調」に終始する人々である。
そうした方向からは、真に「良心的な」論調は生まれない。分かったような、誰からも非難されないような話の繰り返しになってしまうからだ。
また、愛国的な論者も決して少なくない。戦後70年。高度成長を成し遂げてからでも40年。日本の良さ、日本国民の素晴らしさを語る者も珍しくなくなった。
だが、その一方で「日本的良さ」を強調する余り、この国の歴史と文化に与えた外国と外国人との関わりを軽視する人もいる。
知的で良心的で愛国的であるためには、すべてを公正に見る知性と知識、流行にもマスコミ論調にも媚びない骨太さ、そして内外の知識を深く知る勉学が必要である。
渡部昇一先生は、この3つを兼ね備えた碩学、勇気ある知的巨人だった。ヨガの達人でもあったので、「あと10年は達者でご活躍いただける」と思っていたが、残念である。
渡部昇一先生、あなたはいつも朗らかでした。
日本が濡れ衣を着せられている歴史問題を語るときでさえ、濡れ衣を着せる国家や民族の過ちを指摘して、真実の力は強いと、朗らかに笑うのが常でした。
致知出版社が主催するホテルニューオータニでの会合にお招きを受ける度、私は日本を取り囲む国際情勢について語り、日本人がなすべきことを説き続けました。話に耳を傾け、大事な点に解説を加えて、深めて下さるのが渡部さんでした。
文字どおり古今東西の書物に通じ、膨大な量を読んでおられることには圧倒され続けました。単なる博覧強記ではなく、知識のひとつひとつが、祖国日本への愛、信頼、誇りと一体化しているのを感じさせられました。
どれ程多くの若い世代の人々が、『全文リットン報告書』の渡部さんの解説から大事なことを学んだことでしょう。『紫禁城の黄昏』の解説では、岩波文庫の訳文から、中華人民共和国に都合の悪い部分が削除されている事実を指摘なさいました。東京裁判で証拠採用されなかった同書を、どの章も削除することなく完訳の形で世に出されたこと、その意味を説かれたことは、日本人の歴史観を極めて前向きに変える力となったはずです。
歴史に埋もれていた数多の事実に光を当て、日本の名誉回復と、若い世代の自信回復の後押しをなさった渡部さんに、心よりの敬意をはらいます。そしてもう、あの朗らかな、そして日本への愛と信頼にあふれた笑い声をきけなくなったことを、心底、寂しく思います。
渡部先生、万感の想いを込めて、申し上げます。本当にありがとうございました。
初代内閣安全保障室長であった私が昭和天皇大喪の礼警備を最後に官を辞し、素浪人ながら「危機管理」の専門家として文筆や講演、テレビ出演をするようになった頃、渡部昇一さんは、すでに保守派の文化人として大活躍されていた。
いまでこそ「保守」は市民権を得ているが、およそ30年前は「時代錯誤」と同義語であった。「憲法改正」だの「国益」だのと言い出せば、それだけでマスコミの目の敵、発言の機会から締め出されかねなかったのだ。そういう逆風の中にあって、戦後日本のあり方について、筋の通った主張をずっと貫いてきたのが渡部さんだった。
渡部さん、日下公人さん、岡崎久彦さんら、保守派の文化人でつくる「初午会」という集まりがあった。昭和になって最初の午年生まれということから名付けられた会で、私もそのメンバーである。
20数年前のこと、竹村健一さんのご自宅完成時、室内コンサートに夫婦で招かれた。中曽根元総理、ソニーの大賀典雄会長ほか、錚々たるメンバーの中に渡部ご夫妻も招かれており、以来、家族で近しく付き合うようになった。お互い、家に呼んだり呼び返したり、息子さんの結婚式、ご夫妻の金婚式にも伺った。数年前から、私は脊柱管狭窄症で歩くのも難しくなったが、折に触れ手紙をいただき、返信するという間柄だった。
渡部さんの訃報に接したのは、朝、庭の桜が急に散った日だった。妻は「日本の美しい、懐かしい桜が散ってしまわれた」と寂しがっていた。信じるところを誰に遠慮もなく正面から発信してきた渡部さんは、保守派の拠り所であった。安倍晋三総理が駆けつけたくらいだから、まさしく「御目見」「有職」であった。ささやかな思い出を記して、心からの哀悼の意を表する次第である。
渡部昇一先生の御霊に対し、心から哀悼の意を捧げます。
渡部昇一先生は英文学から始まり、政治経済、歴史、哲学など幅広い評論活動をされた稀代の碩学であり、膨大な著書を著した知の巨人でした。渡部先生は、日本の保守の識者であり、日頃から尊敬申し上げておりましたが、特に私にとって、『致知』との接点において2つの縁がありました。
1つ目は、私が会長をしている国会木鶏クラブ(国会議員会員約80名加盟)に講師としてご参加頂いたことがありました。
その時に渡部先生は、「民主主義には横の民主主義と縦の民主主義がある」と発言されました。横の民主主義とは同時代におけるまさに民主主義であり、縦の民主主義とは、社会は我々生きている者だけではなく、過去の営々たる先人たちの営みの足跡であるし、また未来は私たちの子や孫たち子孫のものでもある。
つまり社会は今生きている私たちの判断で物事を決めるのではなく、遠い祖先からの歴史や未来に向けた先見力も併せ持つ改革を進めなければならない。このことが渡部先生の仰られた縦の民主主義であると我々国会議員も改めて得心したところです。
また2つ目は、致知出版社で主催をしている渡部昇一塾での縁です。私は講師として参加したことがあります。色々なところで講演をする機会はありますが、私にとって、渡部昇一塾で講演するということは、大変な名誉であり、誇りに思う出来事でした。それだけ渡部昇一先生には大いなる敬意を持っていたということであります。
戦後、長い間知識人として、日本のあるべき形を卓越した見識によって、引っ張ってこられた渡部昇一先生がお亡くなりになられたということは、いまだに大きな喪失感の底にありますが、心より重ねてご冥福をお祈りいたします。
渡部昇一先生 ありがとうございました。
渡部先生の人生の締めくくりは、実に見事でした。
人は生きたように死ぬといいますけれど、激痛の中でも自分を見失うことなく、最後の一息までしっかり生き抜かれました。
一度、あまりの激しい痛みにお医者様がモルヒネを使ったときに、頭が朦朧とする体験をなさった先生は、頭がぼんやりするより激痛を堪え忍んだ方がいいという選択をなさり、最後までそれを貫かれました。
私は最後の先生のご様子をずっと見守らせていただきましたが、先生をサポートなさるご家族の皆様も実に立派でした。先生のご意思を尊重し、先生の見るに堪えがたいほどの苦しみをも共に耐え抜かれました。皆様が一致協力して、先生を支え続けました。
先生は最後まで生き抜く意欲を持ち続けられ、足が萎えないようにご次男様ご夫妻に支えられながらも、ご自分の足で毎日歩く訓練を続けていらっしゃいました。
そして、毎日毎日おっしゃることは、どの人に対しても「ありがとう」という言葉のみでした。
「ありがとう」というときには神様への深い感謝がこもっていました。私たちはその「ありがとう」という言葉を聞くたびに、命あることのありがたさ、こうした家族のあることのありがたさ、沢山の人とつながっていることのありがたさをしみじみ感じたものです。
「ひとりの人の尊い行為は、多くの人々に限りない功徳をおよぼす」という言葉がありますが、渡部先生は、生涯を通して、とくに、最後の日々の苦しみを多くの人のために捧げることによって、どれだけの恵みをこの世にもたらしたか計り知れません。
先生が常に力を注がれた『致知』を通して、先生に深い感謝を述べることができるのは嬉しいことでございます。
感覚的人物観が許されるとするなら、私は渡部昇一先生を英文学者とみたことは余りない。むしろ漢学を色濃く加味した日本学の権威だと感じてきた。
『致知』で時折対談させていただいた。その折、先生は大きな鞄の中から風呂敷包みを出された。結び目を解いて中から一冊の和綴じの書物を出された。『論語』だ。先生はパラパラと頁を繰って私に示す。「ごらんなさい」。先生が指さす箇所に色の違う傍線が引いてある。
「この色は祖父、この色は父、そしてこの色は私です」。先生が私に見せた『論語』は、家宝的書物だ。先生はさらにこういわれた。
「傍線を引いた箇所が同じ所もあれば違う所もある。面白いでしょ」。確かに面白い。祖父、父、そして先生。同じ書物を読んでも傍線を引くところが違うというのは、三代にわたる渡部家の『論語』の受けとめ方に、差異があることを示している。先生はそれを大切にされていた。しかもそれを風呂敷で包んで始終持ち歩いておられる所が面白い。
洋式鞄の中の風呂敷包み、その中の『論語』、これが何よりも渡部先生の真髄を示していたと思う。西洋の中の古代中国ではない、西洋よりも中国よりももっと大切な日本なのだ。先生は日本国を愛しておられた。日本人を愛しておられた。その立場で歯に衣着せぬ発言を続けられた。
対談の時よく感じたのは、こっちを見る時の笑顔の端に、キラリと鋭い切先の輝きがあることだ。英国式の知の閃きだ。
私は生者が忘れぬ限り死者も生きていると思っている。先生も同じだ。私の座右の書の一冊である『ドイツ参謀本部』と共に、先生はいつも鞄の中の風呂敷包みを見せて下さる存在なのだ。
「渡部昇一先生ご逝去」の知らせを聞いて、大きな驚きと共に、何よりも「早すぎたのでは」との思いが頭をよぎった。たしかに、多くの知己の方々が語っておられる通り、この1年近く渡部先生は御健康を害され外目にも衰弱の御様子だった。しかし私には「渡部先生に限って」、「きっと100歳を超えても現役でおられるはず」との思いが強くあった。
以前、一度夕食を御一緒した時のこと、当時まだ壮年だった私でさえ閉口するほどの大変なボリュームの肉料理の皿を2人分平らげて、なお物足りぬ御様子の健啖ぶりだった。それにごく最近に至っても、あの誰もが驚く旺盛な仕事振りは全く衰えを見せていなかったからである。
私が初めて渡部先生にお会いしたのは、20年前、山本七平賞の授賞式後の懇談の席上であった。
何かの話題から、私が往年のイギリスの歴史作家・サマヴェルの著作で、世界史上の有名な政治家の伝記を扱った本(D.C.Somervell, Studies in Statesmanship, London, 1923)には、こんなことが書いてありますが、と言及したところ、渡部先生は「今の日本にあの本を知っている人がいたのか」と大変喜ばれ、その後も御自分のコラム等で、たとえ初対面でも貴重な知識を共有する人に出会うのは、百年の知己に会う思いだ、との有名な箴言を引いて評して頂いた。
私にとって渡部先生は何よりも、ヨーロッパの文化と歴史を深く知る学者同志として、かけがえのない知己であった。ある時は(その後、途中で立ち消えになったが)昭和史の研究センターを設立して日本人の健全な歴史観の育成を図る計画に共に取り組んだこともあった。
渡部先生は、数十年にわたり平明な叙述で、しかし日本人にとって大切な考え方を説きつづけ、一貫して日本の論壇をリードしてこられ、また、あの独特な山形弁での当意即妙・軽妙洒脱な語り口は全国の多くの渡部ファンを惹きつけてやまなかった。私自身も座談の名手としての渡部先生から、西欧と日本に関わる多くの問題で蒙を啓いて頂いたこともしばしばであった。
近年、「戦後七十年談話」などでは渡部先生と私とで評価は分かれたが、それだけに今一度、親しく歴史論を交わす機会を楽しみにしていた。それゆえに、このたびの訃報は私にとって、何としても「早すぎた」のである。しかし「大切な人の、早すぎる死」、これこそまさに人の世の習い、と言うべきか。
渡部先生の御冥福を心からお祈り致します。
渡部昇一氏は上智大学において、教育と研究に長年にわたり従事されました。そして、大変優れた業績を上げ、瑞宝中綬章を受章されておられます。渡部氏の専門は英語学ですが、言論活動は、その専門分野を遥かに超え、歴史、政治、成功哲学、人物論など非常に広範囲のものでした。
何故そのような幅広い活動ができるのかと問われますと「私は好奇心が旺盛で、つい他の分野にも興味を持ってしまうのだ」と答えておられました。
渡部氏の大きな活動の特徴は、単に学術分野にとどまることなく、一般人にも理解できる本を数百冊出版されていることです。多くの大学人が狭い専門分野に閉じこもりがちなのに比べ、全く異色の存在でした。
以前、書庫を拝見させてもらったことがありますが、15万冊にも及ぶ日本語、英語、中国語などの書物が天井まで収蔵されており、その質と量に圧倒されました。ここに渡部氏の多彩な活動の原点を見る思いでした。
渡部氏は若いころ、ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学に留学した経験を持っておられます。当時、外国に行くのが大変難しい時代でしたが、この外国での経験が、日本と日本人の価値を客観的に見る言論活動に役立っていると思います。
今後、世界に必要なことは、単に科学・技術の力だけではなく、大自然の恵みに感謝し、凜として生きることだと思います。そのためには、日本民族は誇りと高い夢を持って歩んでほしいと切望しておられたように思います。
私はダライ・ラマ14世と何度も対談しましたが、法王は21世紀は日本人の出番が来ると確信しておられました。今後は、日本人を含む東洋人の活躍する時代が来るように思います。このような時期に、渡部氏を失ったことは日本と世界にとって大きな損失であります。
先生は、「知の巨人」と呼ばれ、「信念の人」とも称されます。そこで、私も長い間、近寄りがたい先生だという印象を懐いていました。
しかしながら、有り難いことに近年致知出版社のご縁で、親しく謦咳に接する機会に恵まれ、その印象は一掃されました。実に温かい、人間味のあふれる先生でした。
隔月ごとの勉強会に同席させていただいて、たくさんの思い出を頂戴しました。中でも先生のご自宅の書庫を拝見させていただいた感動は忘れ得ません。15万冊と言われる蔵書はまるで図書館のようでした。
先生は、一時期偏向的な思想を持った人たちから、糾弾されていました。すべての授業を妨害されたこと、仲間の中には自ら命を絶ったり、言論の世界から消えた者も多かったなど、当時のご苦労についてもうかがいました。私は、即座に「先生はどうして平気だったのですか」と聞きました。先生は、「学んで学んで学び尽くして確信したのだから、揺らぎようがない」と答えられました。膨大な蔵書を拝見して納得しました。
また、身の危険を感じることも多々あったと言われました。それでも家に帰る時には、気持ちを切り替えて、家庭には問題を持ち込まなかったというのです。その時も、「どのように気持ちを切り替えられたのですか」と聞くと「雁、寒潭を度る。雁去って潭に影を留めず」という一句を口ずさまれました。『菜根譚』の句でした。
自らはクリスチャンでありながら、禅僧である私にも気さくに接して下さいました。元寇を乗り越えられたのは、臨済禅のおかげであるとのご見識もお持ちでした。「北条時宗の官位は何だったか」とのご下問に、私は「正五位下でした」と即答し、更に「それを従一位に上げて下さったのが明治天皇です」と申し上げると、先生は満足そうに頷かれました。懐かしい思い出です。
「若い者は勉強が足りない。もっと本を読まなければならない」という叱咤のお声が今も耳に残っています。
ご冥福をお祈りします。
父の書庫に座って呆然としている。物言わぬ幾万の書物の重みが身体にのしかかってくるようである。そして目の前に父の骨がある。ただただ不思議に思うのは、あれだけの知識、知見はいったいどこに行ってしまったかと言うことだ。父の死は私にとって切実な出来事であった。
これも父が日頃から言っていたa blessing disguise──仮装した祝福(一見不幸な出来事も本人の心がけ次第で良いことのきっかけになり得ることの謂い)なのであろうか? 今はとてもそう受け入れる気持ちになることは出来ない。
父はその死の半月ほど前、痛む身体を起こして家族と食卓を囲む機会を持った。その時父が「自分ほど幸運に恵まれた人間はいない」と言っていたので、私がなぜそうなれたと思うか問うた。
父はしばらく考えてから「それは自分が親にとても可愛がられたからだと思う」と答え、そして「どんなに貧しいときも子供のためと思われる出費には母は一切文句を言わなかった」と懐かしそうに話した。
父によれば、もし子供が生涯幸運に恵まれる事を願うなら、まずその子供を可愛がれ、と言うことである。確かに私達もそうされてきた。
書庫を改めて見渡すと今更ながらその素晴らしさに驚く。父はこれを一代で築いた。この書庫は幻ではなく現実にあるものだ。この書庫を今後どのようにできるか今は分からない。しかし一つの夢をこれほど見事に実現した証拠は私に呈示されている。
私が受け継ぐべきものはこの事実であり、それが出来た時、初めて父の死がa blessing disguiseと言っていいものになるのかも知れない。
父の生前、父を支えてくださった読者の皆様、致知出版社の皆様に心より御礼申し上げます。
渡部昇一先生が逝かれてひと月が過ぎる。大事な人を亡くしてしまったという思いが日毎につのる。
先生と初めてお会いしたのは昭和56年の5月。『致知』の特集「飴と鞭」にご登場いただいたのが最初である。
当時、先生は『知的生活の方法』がベストセラーになり、多分、超がつくご多忙の中にいらっしゃったのだろう。最初の取材依頼は、「自分はこれ以上人脈を広げたくない」と断られてしまった。だが、単に話題の人ということでご登場をお願いしたわけではない。この人のお考えをぜひ読者に伝えたい、という願いがあってこそである。その思いを込めて再度申し込みの手紙を差し上げたところ、先生はこちらの熱意を感じ取ってくださったのだろう、快く取材に応じてくださったのだ。
以来36年、先生には公私にわたり親しくご交誼ご指導をいただくことになった。
〝知の巨人〟とは先生によくつけられる形容詞である。確かに先生は教養の人であった。しかし、それだけではない。先生は同時に修養の人であった、という思いが私には強い。
このことを改めて痛感したのは、この程出版した『渡部昇一の少年日本史』の口述筆記をした昨年(2016年)のことである。取材の場に現れた先生のお姿に私は絶句した。6月初旬に怪我をされてから食欲を失い1人では歩けなくなり、2人の人に両脇から抱きかかえられて来られたのだ。取材は無理、ととっさに思った。だが、先生は初日は午後1時から6時まで、翌日も朝9時から午後2時半まで、休憩なし、資料も一切見ず、時間と共に熱を帯びて語り続け、仕事を終えられた。その仕事に懸けた気迫に、先生の積まれた修養の結晶を見た、と思った。
『致知』30周年記念式典の折のことも忘れられない。式典の後、「藤尾さん、ぼくを50周年の記念講演の講師にしてくれませんか」と申し出を受けたのだ。「いいですね。先生97歳、私80歳、2人でやりましょう」と笑い合ったのだが、それは叶わぬ夢になってしまった。
『致知』を深く愛してくださった先生。『致知』が代表的国民雑誌になることを願い、力になってくださった先生。その先生の願いを実現することを使命とし、50周年に向けて全力を尽くすこと。これ以外に先生のご恩に報いるものはない、と強く思う。
先生、長きにわたり、ありがとうございました。