2026年4月号
特集
感謝にまさる
能力なし
対談
  • 澄川酒造場 第四代目蔵元杜氏澄川宜史
  • 新澤醸造店 五代目蔵元新澤巖夫

ほうおんかんしゃ
日本酒づくりを貫く

共に国内外の数々の日本酒品評会で高い評価を得、多くの人々を魅了し続けている澄川酒造場(山口県)の「東洋美人」、新澤醸造店(宮城県)の「伯楽星」。それぞれの酒蔵を率いる澄川酒造場第四代目蔵元杜氏の澄川宜史氏と、新澤醸造店五代目蔵元の新澤巖夫氏に、師の教えや越えてきた試練を交え、妥協なき日本酒づくりの道のり、運命を力強く切り拓いていく要訣を語り合っていただいた。

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    澄川酒造場 第四代目蔵元杜氏

    澄川宜史

    すみかわ・たかふみ

    昭和48年山口県生まれ。東京農業大学農学部醸造学科在学中に、高木酒造の十五代目当主・髙木辰五郎氏に弟子入り。大学卒業後、家業の澄川酒造場に入る。平成16年に第四代目蔵元杜氏に就任。奇を衒わない「王道の日本酒」を追究し、主銘柄「東洋美人」は、世界最大級の日本酒コンペ「SAKE COMPETITION」にて24年に「生酛・山廃部門」で第一位、翌年「純米吟醸部門」「生酛・山廃部門」の二部門で第一位に選出、令和6年山口県の鑑評会にて「大吟醸」「純米吟醸」「純米」の全3部門を制し、初の3冠を達成するなど国内外で高く評価されている。

    新澤醸造店 五代目蔵元

    新澤巖夫

    にいざわ・いわお

    昭和50年宮城県生まれ。東京農業大学農学部醸造学科卒業後、家業の新澤醸造店に入社。25歳で杜氏に就任。同年〝究極の食中酒〟「伯楽星」を世に出す。「伯楽星」はFIFAワールドカップ公式酒に選ばれるなど、国内外で高い評価を受ける。平成23年36歳で代表取締役に就任。28年『SAKE COMPETITION』にて「あたごのまつ」が純米酒部門第一位に選出。令和4年より世界酒蔵ランキング4年連続1位。IWC(インターナショナルワインチャレンジ)にて、世界一の蔵元に贈られる『Sake Brewer of the year』に4年連続(令和4~7年)で選出。

    日本酒づくりの道を共に歩んできた2人

    澄川 新澤とは東京農業大学醸造学科の同級生で研究室も同じでしたが、在学中はあまり接点がなく、話したこともなかったですね。

    新澤 そう、澄川すみかわはほとんど大学に出てこなくて(笑)、お互い地方のさかぐらの跡取りとして一緒に食事に行ったことも、日本酒について語り合ったこともなかった。

    澄川 大学に出なかったのは、アルバイトをしたり……、まあ、いろいろ忙しかったんです(笑)。
    しかも、卒業式の前に新澤が病気で入院してしまって、結局、卒業式でも会わずじまいでした。

    新澤 その時、研究室のメンバーが寄せ書きを贈ってくれたのですが、皆が励ましの言葉を書いてくれている中で、澄川のだけユーモアにあふれた内容でした。何が書いてあったかはとても明かせませんけれども、澄川の寄せ書きだけはいまでも忘れられません(笑)。

    澄川 その後、大学を卒業して家業に入り、2年ほど経った頃だったかな。酒蔵の交流会で会ったり、電話をもらったりするうちに、付き合うようになったのでした。
    それ以来、30年以上の長い付き合いになりますが、新澤の尊敬するところは、周りからどんなに馬鹿にされようとも、誰もやっていないことにどんどん挑戦して究極のところまで突き詰める、その大胆さと圧倒的な行動力です。料理と調和する〝究極の食中酒〟を追究した「はくらくせい」も、それまでなかった日本酒で、新澤だからこそ生み出せたのだと思います。
    僕の日本酒づくりを「静」だとしたら、新澤は「動」。まさに新澤は日本酒界の勝負師ですよ。

    新澤 大学ではあまり接点がなかったとはいえ、当時から澄川は発言や物事の判断の仕方など、僕より一歩も二歩も先に行っているなと感じていました。家業に入ってからも、澄川は伝統を踏まえた本道を外さない日本酒づくりを愚直に貫いていて、実際、「とうようじん」が国内外で高い評価を受けているように、他に真似のできない一流の味をつくってきた。また、日本酒以外の事業に多角化する酒蔵もある中で、澄川は何より大事なのはまず酒づくりだと、そこに会社の資源を最も傾けていました。
    だから、おそらく澄川が僕から学んだことはあまりなくて、僕が澄川から教えてもらったことのほうがたくさんあると思います。
    同級生だけれども、接すれば知らないうちに日本酒の本道に連れて行ってくれる、上のレベルに引き上げてくれる、人生、仕事の先生のような存在が澄川ですよ。

    澄川 後ほど詳しく触れますが、僕は在学中にめいしゅ「十四代」で知られる高木酒造(山形県)で研修する機会に恵まれ、そこで日本酒づくりの偉大な先輩から地方の酒蔵のあるべき手本、道標を教えていただいたんです。それに同級生といっても、大学浪人をした僕のほうが少し年上で、病気療養した新澤よりも少し早く家業に入りました。その分、新澤に示せるものがあっただけだと思うんです。
    また、先輩に教えていただいたことを愚直に守り、何があっても環境のせいにせず、とにかく現場第一で日本酒づくりに向き合い続ける。それをやり続ける以外、地方零細の酒蔵が生き残る道はなかったというのが僕の本音です。

    〝王道の日本酒づくり〟を追究した澄川酒造場の 「東洋美人 純米大吟醸 壱番纏」

    人生を決めた生涯の師との出逢い

    新澤 確かに僕らが家業に入った当時、日本酒は斜陽産業と言われていて、「自分はこんなお酒をつくりたい」とか、贅沢ぜいたくなことを言える状況ではなかったですね。それよりも、日本酒が売れずに困っている家族を何とかしたい、貧乏生活から抜け出したい、そういうところからのスタートでした。

    澄川 本当にその通りで、振り返れば、僕らの歩みは活躍する先輩への憧れと見栄、欲望とせ我慢、その連続でしたね。新澤は売れないみじめな時代から一緒に歩んできた〝同志〟だと思っています。
    もともと澄川家は、山口県はぎ市小川の地で米問屋を営んでいたのですが、親戚筋の酒蔵の運営がうまくいかなくなったことで、曽祖父が経営を引き継いだんです。それが1921年のことで、澄川酒造場の始まりでした。また、澄川酒造場の代表銘柄の「東洋美人」は、初代の曽祖父が亡き妻を思い名づけたと伝えられています。
    その後、お酒と一緒に食品などを売る、地方のよくあるよろずとして商いを続けていたのですが、父の代になって以降、時代の変化により日本酒の需要が年々減少、地方の酒蔵がどんどん潰れていくという厳しい状況に直面しました。
    希望も未来も感じられない、自分が跡を継ぐことも考えられない。そんな先が見えない中で東京農業大学に進学したのですが、転機が訪れたのは3年生の時でした。先ほど触れた高木酒造の十五代目当主・髙木たつろうさんのもとで研修する機会に恵まれたんですね。
    これは後から知ったことですけれども、実は新澤も高木酒造の研修に応募していたんですよね。

    新澤 僕は残念ながら選ばれませんでしたが、高木酒造の研修を希望する学生はすごく多くて、皆で取り合いになっていましたね。

    澄川 僕はたまたま父が高木酒造とご縁があったことで、研修生として選んでいただけたんです。
    ただ、大学の授業をさぼるような不真面目な学生でしたから、最初は1か月の研修が嫌でたまりませんでした。ところが、大学の先輩でもある髙木さんが命を削るようにして日本酒づくりに向き合っている姿を見て、衝撃を受けたんです。まるで戦場のように見えるほどのすさまじい気迫でした。
    例えば、髙木さんのご自宅兼仕事場に住み込んでの研修だったのですが、毎日、深夜に気配がするんですね。様子を見てみると、髙木さんが寝室と仕込み蔵を何度も行き来して、日本酒の状態を確認していたんです。ものすごく神経を使っているのを感じました。

    新澤 夜中でも、気を抜かずに日本酒づくりに向き合っていた。

    澄川 また、一緒に食卓を囲んだ時にも、先代と現当主の髙木さんが日本酒づくりに関して、「ああでもない、こうでもない」と、けんしているんじゃないかと思うほど真剣な議論を始めるんです。
    しかも、髙木さんが席を立っても、そのあとを先代が追いかけてさらに議論を続けていました。
    そのような光景に毎日接し、また、髙木さんからも「お前は俺の唯一の弟子だ」「俺たちは酒づくり一筋でいこう!」と言っていただいたことで、「地方の酒蔵の後継者である自分がやるべきことはこれだ」「家業に戻って頑張ろう」と覚悟が決まったんです。
    だから、父のご縁、髙木さんとの出逢いがなければ、きっといまの自分はなかったでしょうね。
    あと、これは家業に入ってからのことですが、父が引退していたとうの米田幸市さんを澄川酒造場に呼び戻してくれて、1年ほど米田さんと寝食を共にしながら、日本酒づくりの基本、酒蔵の当主のあり方を厳しく叩き込んでいただきました。その時に米田さんにいただいた「醇道じゅんどう一途」の言葉は、「東洋美人」のラベルにも記載しています。

    新澤醸造店の代表銘柄、〝究極の食中酒〟を追究した「伯楽星」