2019年5月号
特集
枠を破る
対談
  • 歌手(左)大石亜矢子
  • 弁護士 (右)大胡田 誠

ともに盲目の
弁護士と歌手夫婦

二児の子育て奮闘記

大胡田 誠さん、大石亜矢子さんご夫妻はともに全盲というハンディを抱えながら弁護士、歌手として活躍を続ける一方、家庭では2人の子供を育てる父親と母親でもある。様々な壁や逆境に直面しつつも、それを乗り越えて力強く歩んできたお2人に、これまでの人生や仕事、子育てについて語っていただいた。

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盲目の弁護士、音楽家として

——大胡田おおごださんご夫妻は、ともに全盲というハンディを抱えながらも、社会の第一線で活躍なさっていますね。

大胡田 私が弁護士としての活動を通して感じるのは、法律面、また精神面の支えとなって、困難に直面しながらも一歩を踏み出そうとする依頼者の方々のお手伝いができたら、ということなんです。と同時に家に帰れば、この春小学3年生になる長女・こころ、小学校に上がる長男・ひびきの父親でもありますので、しっかりと家庭を守り、子供たちが小学校生活に馴染なじめるように親としての務めを果たしたいというのがいまの思いですね。
私の元に相談にお見えになるのは、4人に一人が視覚障碍しょうがい者です。最近でも、黄色い点字ブロックを歩いていた視覚障碍者の女性が、道を塞いでいた工事の看板にぶつかって転倒し、怪我けがをしたというので、工事を行っていた会社を相手に裁判を起こしたんです。会社側は「看板を置いたのは悪かったけれども、白い杖を突いて歩いていたんだから、看板があることが分かったはずだ」と主張しているわけですが、我われが道を歩く上で点字ブロックはなくてはならないものです。責任が問えないとなると非常に困ってしまいますので、いまはその裁判に全力を注いでいるところなんです。

大石 私の場合は、もちろん子育てもそうなんですけど、音楽活動を地道に続けていきたいという気持ちがとても強いですね。音楽の楽しさ、素晴らしさを皆さんにお伝えし一緒に楽しめたらという思いで活動を続けていて、ありがたいことに昨年は『My Best』というアルバムをリリースすることもできました。

大胡田 音楽活動20年の節目に、CDを出せたことは亜矢子さんにとってとても大きな喜びでしたね。

大石 ええ。そして、もう一つの柱はやはりコンサート活動です。実は昨日も聾唖者ろうあしゃの劇団の皆さんとともにイベントに出演し、ミニコンサートを開いたばかりなんです。イベントの一環として行われたトークセッションにもパネリストとして参加させていただきました。
そこでは来年の東京オリンピック、パラリンピックに向けて皆で理解を深め合うことや、この大イベントが終わった後にどういう社会にしたいのかを話し合ったんですけど、そこで私がお話ししたことの一つは、盲導犬を連れて歩いていて珍しそうな目でジロジロと見られたり、ホテルやレストランの利用を拒否されたりすることのない社会の実現でした。

大胡田 そう。盲導犬が一緒だと伝えて利用を断られてしまうことを、私たちは何度も経験しているからね。

大石 ネットでホテルに予約を入れようとして、備考欄がないのでそのことを電話で伝えた時も即座に断りの返事をもらいました。私たちのようなみじめな思いをしてほしくないし、だからこそ私はどんどん外に出ていって音楽を通して世の中を変えたいと思っているんです。

大胡田 いまの日本は共生社会とか1億総活躍社会という掛け声は盛んなんですけど、我われからすると現実の足下はそうではないと思うことが度々ですね。
私のところにも「視覚障碍のために仕事を辞めさせられそうになっている」といった相談が結構あるんです。最近もある大学の先生が視覚障碍者になったことで授業を取り上げられたケースがありました。その先生は授業の代わりに事務を命じられ、最高裁まで戦って無効という判決を勝ち取ったのですが、学校側はそれでも授業には戻してくれない。
そういう現実がたくさん横たわっていますので、私は個々の救済に当たるのはもちろん、自身が全盲の弁護士として仕事をしている姿をでき得る限り発信し、障碍があっても十分に仕事ができるということを社会にアピールしていきたいと思っています。

弁護士

大胡田 誠

おおごだ・まこと

昭和52年静岡県生まれ。先天性緑内障により12歳で失明する。筑波大学附属盲学校の中学部・高等部を卒業後、慶應義塾大学法学部を経て、慶應義塾大学大学院法務研究科へと進む。平成18年5回目の挑戦で司法試験に合格。全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士となる。25年からつくし総合法律事務所に所属し、一般民事事件や企業法務、家事事件(相続、離婚など)や刑事事件などに従事する他、障碍者の人権問題をテーマにした活動も続けている。著書に『全盲の僕が弁護士になった理由』(日経BP社)。

「もう駄目だ」と思った時ゴールは間近

——お二人はこれまでどのような人生を歩んでこられたのですか。

大胡田 私が生まれたのは伊豆半島に位置する静岡県中伊豆町なかいずちょうという田舎町です。生まれつき先天性緑内障という目の病気をわずらっていて、その頃から強度の弱視でした。小学校に入った頃、視力は確か0.1くらいでしたね。
先天性緑内障は成長するにつれて視力がだんだんと失われていくケースが多く、私の場合は6年生に上がった頃に急に視力が低下して、夏休みが終わる頃にはほぼ全盲になっていました。目が見えていたのがわずか数か月で一遍に見えない状態になってしまったわけです。やはり、そこからしばらくは塞ぎ込んでしまって、周りの目も気になって引き籠もりのような状態になってしまったんです。
卒業する頃に「このまま周りの目を気にしながら生活するのは嫌だな」と東京に出ることを決意し、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学しました。それでも複雑な思いはなかなか抜けませんでしたが、中学2年生の時に全盲の弁護士として知られる竹下義樹さんの『ぶつかって、ぶつかって。』という本に出合い、大きな刺激を受けました。目が見えなくても弁護士という社会的責任のある仕事をしている人がいることを初めて知ったんです。
できない部分ばかりの自分でも、残された可能性を開花できれば、意外といろいろなことができるのではないか。そう考えると力が湧いてきました。「大人になったら弁護士になりたい」とあこがれを抱いたのは、この時でしたね。

大石 まことさんと弟のゆたかさんを連れて、お父さんがよく山登りに行っていた思い出。この話も大変印象的ですよね。

大胡田 3つ下の弟も同じ先天性緑内障を患って生まれ、12歳で全盲になりました。だけど、両親はただの一度も私たちの前で私と弟が障碍を持って生まれたことに対して失望や弱音を口にしたことはありません。もともと父は山好きだったので、幼い頃から私と弟をいろいろな山に連れて行ってくれました。6年生で視力を失った後も、相変わらず「山に行くぞ」と。私はまったく気が進まなかったんですけど、目は見えなくても音と足下の感覚で結構登れるものなんですね。

大石 お父さんがラジオを鳴らしながら先を歩いたりして。

大胡田 そうそう。その音について山を登り、富士山の山頂まで登ったこともあったなぁ。
なぜ山に登るのか。父からその答えを聞いたことはありませんでしたが、もしかすると「人生で起きてくる出来事からは決して逃げられないんだ。登るか下るしかない。だったら一緒に登ろうじゃないか」。そんなことを背中で教えてくれたのではないかという気がします。
ただ、随分月日が経ってからですが、父は富士山を登りながら、こう話したことがあったんです。
「山というものは、登り始めは山頂の景色がくっきりと見えて『あそこまで登っていけばいいんだ』と元気が湧いてくる。だけど登り続けていくと山頂の景色が不意に見えなくなって不安になる。だけど、それは山頂が近づいている証拠なんだ。だからこそ、もう一歩踏み出そう」
たぶん父なりの哲学で、「もう駄目だ」と思った時こそ、ゴールのすぐ側にいることを伝えようとしたのでしょう。父のこの言葉には受験勉強や弁護士として活動を続ける中でとても励まされました。

歌手

大石亜矢子

おおいし・あやこ

昭和50年千葉県生まれ。極低出生体重児だったため、保育器の高濃度の酸素により網膜が損傷する「未熟児網膜症」によって失明。2歳の時に静岡県沼津市に移住。筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の中学部・高等部を卒業後、武蔵野音楽大学声楽科卒業。ソプラノ歌手としてソロ歌唱の他、ピアノの弾き語りによる演奏活動を勢力的に行い、各地で感動を呼んでいる。また、盲導犬の啓発活動なども行う。大胡田氏との共著に『決断。全盲のふたりが、家族をつくるとき』(中央公論新社)がある。平成22年CD『マイ・ライフ』を、30年アルバム『My Best』をリリース。昭和50年千葉県生まれ。極低出生体重児だったため、保育器の高濃度の酸素により網膜が損傷する「未熟児網膜症」によって失明。2歳の時に静岡県沼津市に移住。筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の中学部・高等部を卒業後、武蔵野音楽大学声楽科卒業。ソプラノ歌手としてソロ歌唱の他、ピアノの弾き語りによる演奏活動を勢力的に行い、各地で感動を呼んでいる。また、盲導犬の啓発活動なども行う。大胡田氏との共著に『決断。全盲のふたりが、家族をつくるとき』(中央公論新社)がある。平成22年CD『マイ・ライフ』を、30年アルバム『My Best』をリリース。