2017年7月号
特集
師と弟子
インタビュー
  • 合気道祥平塾道場長菅沼守人
我が師を語る③

合気道
開祖・植芝盛平翁に
学んだこと

「動く禅」とも呼ばれ、いまや国内だけでなく全世界に広がりを見せている合気道。開祖・植芝盛平翁はどのような道を歩み、何を求めたのか。盛平翁の最後の内弟子である菅沼守人氏に、師の教えを交えながら語っていただいた。

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触れた途端に倒されている

——菅沼先生は植芝先生の最後の内弟子でいらっしゃるそうですが、どういう出会いだったのですか。

大先生(植芝盛平先生)のことを最初に知ったのは中学生の頃読んだ1冊の本でした。ある食堂で腕っ節の強そうな酔っ払いが女性店員を品のない言葉でからかっていた。誰も止めようとしないので、そこにいた白髭を蓄えた小柄な老人が丁寧な言葉で注意すると、男はいきなり殴りかかってきた。老人が持っていた箸で男の腕を挟んだところ、押そうが引こうがビクともしない。男は決まり悪そうに出て行った。その小柄な老人こそ合気道の開祖・植芝盛平だった、という話です。
もちろん、これは物語ですから相当脚色されていますが、私は強さに憧れた時だったこともあり、惹かれるものがありましたね。
それから10年ほど経った昭和42年、私の大学の合気道部を指導してくださっていた師範の勧めで大先生の内弟子に入った頃、似たような場面に出くわしました。
草相撲をやっておられたという佐橋滋という通産次官の方が新宿の合気会本部道場に見学に来て大先生と歓談されたことがあります。大先生が「あなたの手を机の上に置いてごらんなさい。爺が人差し指で押さえるから動かしてごらんなさい」と。ところが佐橋さんはどんなに頑張っても動かすことができず、照れくさそうに大笑いされていました。このように大先生はパッと勘所を押さえるのがとてもうまかったですね。

——植芝先生はおいくつでしたか。

84歳だったと思います。大先生は身長156センチと大変小柄でしたが、86歳で亡くなるまで、無敵ともいってよいほどの強さをお持ちでした。ただそれは力強さというのとは違います。お若い頃は隆々たる体格で技も稽古も相当厳しかったと聞いていますが、その頃は削ぎ落とされた力というのか、技を掛けられると柔らかく吸い込まれるような感覚でしたね。触れた途端、気がつくと倒されていました。日々の鍛錬と工夫によって無理無駄のない技に変えていかれたのでしょう。
大先生の遺訓の中に、
「武を修する者は、万有万神の真象を武に還元さすことが必要である。たとえば谷川の渓流を見て、千変万化の体への変化を悟るとか、また世界の動向、書物をみて無量、無限の技を生み出すことを考えるとかしなければいけない」
とありますが、そういう修練の足跡が垣間見られる言葉ですね。

——内弟子として接する中で思い出といえば?

私が仕えたのは最晩年でしたので、厳しさよりも優しい一面が印象に残っています。大先生のお部屋にお着替えなど支度のお手伝いに行くと、傍にあった饅頭を2つに割って「食べなさい」と言って分けてくださったり、お供をして出掛けた時には「おまえはいつも同じネクタイをしているね。これで新しいものを買いなさい」と1,000円をいただいたり……。
それから大先生は大変、時間に厳しい方でした。「一汽車前」という教えがあります。途中で何があるか分からないから、一汽車前に行って待っていなさい。そうすると心に余裕が出て落ち着いて行動できる、という意味だと教わりました。武道ではよく隙をつくるなと言いますが、それは決してピリピリした感覚ではなく、このように余裕を持って慌てずに動くことによって、自然に隙のない状態が生まれるのでしょうね。

合気道祥平塾道場長

菅沼守人

すがぬま・もりと

昭和17年福島県生まれ。42年大学卒業と同時に植芝盛平翁の内弟子となる。45年九州派遣師範となり、49年植芝吉祥丸・二代道主より祥平塾の道場名を頂戴する。現在、福岡を中心に国内外に100か所以上の道場を開設。平成13年合気道八段位に列せられる。全日本合気道連盟理事。