ペンシルロケットの発射実験(右が糸川英夫氏) ⓒ毎日新聞社/時事通信フォト
2017年7月号
特集
師と弟子
インタビュー
  • 垣見技術士事務所所長垣見恒男
我が師を語る②

糸川英夫と歩んだ
宇宙開発の道

「日本の宇宙開発の父」と称えられる糸川英夫。糸川と常に行動をともにし、日本のロケット開発の礎を築いた人物が設計技術者の垣見恒男氏である。垣見氏は糸川に何を学び、何のノウハウもない中、師の思いをどのように実現していったのだろうか。

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「ロケットを一緒にやらないか」

——まずは糸川先生との出会いについてお話しください。

私は昭和28年に東京大学の機械工学科を出て富士製鉄(現・新日本製鐵)に行く予定でした。ところが、結核だと言われて入社が1年先送りになりましてね。就職先未定のままジェットエンジンの卒業設計やピストンエンジンの卒業実験をやっていました。
その頃、富士精密工業(現・IHIエアロスペース)で設計部長をやっていた中川良一さんが私の指導教官に「いい人材がいないだろうか」と相談し、教官が私を推薦したものだから、無試験で富士精密に入社できたんです。就職難の時代で、私には願ってもないことでしたね。
入社後、農業用ディーゼルエンジン、自転車用補助エンジンの設計を手掛ける部署に配属になりました。このままエンジン屋の道に進むとばかり思っていましたが、その年の11月に千葉の東京大学生産技術研究所(生研)の糸川さんが荻窪の富士精密を訪ねてこられたんです。

——目的は何だったのですか。

糸川さんはその年にアメリカに視察に行き、「飛行機がプロペラからジェットに変わっている時代に日本が飛行機の開発をやっても手遅れだ。やるならロケットだ。ロケット旅客機で太平洋を20分で横断しよう」と壮大な構想を抱くんです。それで帰国するとすぐに経団連の報告会でここぞと思う会社にロケットの共同研究を提案される。ところが、企業性不明のロケットの話に乗ってくるような企業は一つもない。最後の望みをかけて:富士精密に協力を求められるんですね。
富士精密の前身は中島飛行機といって、糸川さんは戦前、そこで航空力学の専門家として戦闘機「隼」などの設計に従事されていました。同じ会社の仲間が多くいる富士精密なら、と期待を寄せられたのでしょう。実際、話はすぐに成立したのですが、「東大の糸川研究室の人間は使いものにならん。誰か人を出してもらえないか」と。それで当時の役員や中川さんたちが私を説得するわけです。
白羽の矢が立ったのですね。垣見 だけど、私は糸川さんのこともロケットのことも全く知りませんでした。最初に糸川さんから「ロケットを一緒にやらないか」と言われた時、「何で私が女の子のペンダントを作るんですか」と答えたくらいですから(笑)。

——入社したばかりの垣見さんが推薦を受けられたのは、何か理由があってのことでしょう?

私はその頃、設計技術者として農業用ディーゼルエンジン、自転車用補助エンジンの開発の手伝いをやっていたわけですが、当時はまだ部品の規格がメーカーによってまちまちでした。私は中島飛行機時代の蔵書を参考にして、設計計算書を独自に作成しました。それから他社がどこもできなかった作動中の機械振動を止める実験にも成功しました。
中学時代から数学が得意中の得意ということもあったのでしょうが、僅か3か月で、これらの実績を上げたことが高く評価されたのだと思います。

垣見技術士事務所所長

垣見恒男

かきみ・つねお

昭和3年滋賀県生まれ。陸軍予科士官学校、東京大学工学部機械工学科を卒業した後、富士精密工業(現・IHIエアロスペース)に入社。以来、東京大学教授だった糸川英夫とともに日本初となるロケット開発に従事。「ペンシル」「カッパ」などのロケットを設計し、成功の一翼を担う